間違った自然観、科学観から解放される必要がある


聖書は、夢、幻、瞬間移動、神癒など奇跡に満ちている。

そして、それこそが神の証しでもある。

なぜならば、聖書の世界は、超越者の世界だから。

もし、この世界の通常の規則、自然法則、心理法則などの範囲内でしか信仰について考えてはならないならば、神は実質的に神ではなくなる。

神を我々の世界に閉じ込めようとするのは、不信仰である。マイナーな間違いではない。

自然科学を専門にやったような人々が陥るミスは、自分が関わっている研究領域から敷衍して、世界そのものもすべて厳密に数学や科学の法則に則って成立していると考えるところである。

帰納法的に考えるべきなのに、演繹的に考えている。狭い研究所の中で体験したことを「いかなる根拠もなく」全宇宙にまで拡大し、「すべてはこれで成立している」と早急に結論する傾向が自然科学者に多い。

いいですか!科学というのは、次の瞬間に自分の手を離れたコップが下に落ちることを証明することすらできないのだ。

誰が類推によらずに、原理によって「次の瞬間に引力が100%働く」と言えるだろうか。

「そりゃtomiさん、当然下に落ちるでしょう。そんな単純なことも信じられないのですか」と言うか?

もう次元が違うのだ。そんな経験則の問題を扱っているのではなく、純粋に認識論の問題を扱っている。

科学が帰納法的に認識することを旨とするならば、データを集めて法則を仮説としてたて、実験を繰り返して再現可能であればその法則が成立すると結論する。

ただし、その法則は「通常の場合」成立するということを示しているだけで、「100%」成立するというものではない。

人間の経験は有限なので、絶対に「いつでもどこでもどんな場合でも」成立する法則など見つからない。

これが科学の限界だ。

だから、科学を追及していって、神や奇跡の不在を証明するなど絶対に無理。

科学は奇跡を否定できない。処女降誕が歴史において一度も起こらなかったということを証明することはできない。

神が新たに人間の胚を創造され、それをマリアの胎内に置いた、ということを否定できない。

だから、クリスチャンは信仰の世界を科学によって制限してはならないのだ。

自然科学の法則は、神の僕である。

神が法則に世界を支配させたのである。神は法則の上におられるので、ときにその法則を適用しないことがある。そして、自らの力で対象を扱うことがある。これが奇跡だ。

エゼキエルやエリヤやイエスが天に昇ったのは、通常任せておいた引力の法則を差し止めて、ご自身の力を働かせられたから起きた現象である。

我々は、この世界を見るときに、「自然法則は絶対である」と見るべきではない。それは、偶像礼拝である。

被造物を神の座に据えることだ。

我々は、この世界を見るときに、「神は自然法則を僕として、管理者として任命された」と考えるべきだ。

私の親族を含め、多くのクリスチャンが、自然主義者になっているのを見る。

残念である。

間違った自然観、科学観から解放される必要がある。

 

 

2008年7月2日

 

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