聖書律法による統治の時代がやってきた


我々が今日教会において教えられているのは、西側のキリスト教の伝統を経由したキリスト教である。

キリスト教は教父時代からユダヤ性を払拭すべく努力してきた。そのために、それは異邦人化されており、ユダヤ人が旧約時代に蓄えてきた律法に基づく福音理解から遠く離れてしまった。

今日の教会の律法嫌いは、キリスト教が異邦化されたことに主な原因がある。

キリスト教は教父時代から、律法を敬遠する傾向が強かった。カトリック教会は、律法の代わりとして、自然法を導入した。

自然法は、聖書の法を越え、神の創造という狭い枠を越えた、もっと普遍的な法であると考えられた。

したがって、カトリックの支配下にあったヨーロッパにおいて、法とは、聖書律法と自然法という2つの法律の混合であった。

カント以降、人間は、法の世界を与えられたものとしてではなく、人間が自分で作っていくものと考えるように変わり、自然法の影響も廃れていった。

20世紀になって、人間を越えた普遍的な高等法という概念は否定され、時代によって、地域によって、民族によって、社会によってそれぞれ独自に編み出された「相対的法」が支配的になった。

現在我々が信じている法とは、神とか、自然とかによって決定されている普遍的法を前提とせずに決定される、純粋に人間的な法律である。

ここで、「世界を完全に世俗化する」というサタンの目標は達成された。

問題の根源は、「法とは何か?」という問題に対してキリスト教がはっきりとした回答を用意してこなかったことにある。

それは、聖書律法を唯一絶対の法として受け取ることを拒否してきたからである。

宗教改革時代に、カルヴァン派において、聖書律法は部分的に回復したが、しかし、徹底はされなかった。アメリカのピューリタンたちが、生活の様々な分野に聖書律法を適用しようとしたが、それも不徹底に終わり、政府はフリー・メイソンによって乗っ取られ、憲法はメイソンの憲法になった。

この時代には、まだまだ「世俗の血が少しでも入ること」に対する危機感は薄かった。

しかし、共産主義革命、ヒューマニズム公教育、様々な領域におけるキリスト教の影響の衰退等を経験した我々の時代は、このことに対して深く反省することができる。

ヴァン・ティルは、「世俗の法を少しでも入れることがなぜできないのか」をはっきりと説明した。

人類はついに、「聖書律法しかない」と気づきつつある。

この世界が神の創造による以上、この世界の使い方については、神から直接に指導を受ける以外にないのである。

いよいよ最後のステージになった。

これからは聖書律法による統治の時代である。

その前にヒューマニズムの法の失敗がなければならない。

ヒューマニズムは、自分の悪魔性を衆目にさらすことになるだろう。

 

 

2005年12月15日

 

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