優先順位を確立しよう


だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。・・・
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
(マタイ6・24-25、31-34)

ここで教えられているのは、「本質」に注意を集中することである。クリスチャンは、本質を常に見つめ、瑣末なことがらに注意を逸らしてはならない。

まず、「神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」という戒めがある。

それに対応して、イエスが挙げられたのが、「いのち」と「食べ物と飲み物」、「からだ」と「着物」である。

「いのち」は本質、「食べ物と飲み物」は付随的なもの、「からだ」は本質、「着物」は付随的なものである。

「いのちとからだ」はクリスチャンにとって中心的、本質的なものである。

クリスチャンの「いのちとからだ」は、キリストの「いのちとからだ」である。つまり、我々のいのちも肉体も、キリストの体である教会の一部である。

教会とは、文字通りの建物の教会とか、教会のクリスチャンたちを意味していない。それらは、キリストの体の一部である。聖書において「教会」とはエクレシアであり、それは、被造世界のあらゆるものを含む。キリストを中心とした政治・経済・芸術・スポーツ・家庭・職業あらゆるものである。

被造世界の中でキリストを中心として成立しているものは、ことごとくキリストの体である教会の一部である。つまり、キリストの体とはキリストの御国と言い換えることができる。

我々は、このキリストの体の一部であり、それゆえ、我々の「いのちとからだ」への心配とは、御国への心配である。

神の栄光と御国の拡大こそが、我々の関心事のトップに来なければならない。

それに対して、「衣食」は、「富」であり、偶像である。

衣食や金銭そのものが偶像ということではない。

衣食や金銭がキリストを中心として位置付けられるならば、それも御国の一部である。

だから「衣食について心配してはならないから、クリスチャンは料理やファッションについて無関心になるべきだ」と考えてはならない。

この点を誤解している人々が多い。

先日も、国際政治に関してあるクリスチャンに質問したら、「それは福音と関係ないんじゃないか」と言われた。

福音と関係ないものなどこの世界に一つもない。すべてはキリストの血によって買い取られるべき対象であり、キリストの御国に加えられるべきものである。

政治や経済は、福音と関係ないとするのは、神の支配されない領域を作ることになるから、偶像礼拝である。万物、すべての領域は、キリストの御国に加えられるべきである。

クリスチャンは、政治や経済をキリストを中心としたものに変え、料理やファッションをキリスト中心のものに変えるべきだ。

そのための心配は「神に仕える」ことであり、罪ではない。

お分かりだろうか。ここでイエスが「いのちとからだ」という表現を用いて言われていることは、クリスチャンは、すべてを御国とその義のためにせよ、ということである。

そして、それに集中するならば、それに必要なもの、「衣食」は付随的に与えられる、ということである。

聖書契約は、まず倫理規定があり、それに対する賞罰規定が伴う。

我々がすべてを神中心、キリスト中心に行うという倫理規定を遵守するならば、それに対する肯定的な結果として衣食が伴ってくる。

だから、クリスチャンにとって、集中すべきはこの倫理規定である。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。(1コリント10・31)

しかし、クリスチャンの歩みは誘惑や自身の弱さから容易にわき道に逸らされる。

しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。(マタイ13・21-22)

「困難や迫害」と「この世の心づかいと富の惑わし」によって、目が本質から逸らされる。

経済的な心配や金銭的誘惑、人間関係への心配などによって、御国やその義などどうでもよくなってしまいがちだ。

契約の構成要素の順番を間違える。まず賞罰を求め、倫理規定を求めない。

こういう人生は実を結ばない人生である。

衣食や金銭は、御国とその義を求めるときに、契約的因果律にしたがって与えられるのである。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

まず第一のものを第一とすること、優先順位の確立こそ我々の課題である。

 

 

2009年2月2日

 

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