字義的解釈と象徴的解釈の区別20


<Q>
後、東について聞きたいのですが。キリスト教において東はあまり良いイメージをもたれてはいませんが、例えば、太陽崇拝やカイン、エジプトや東邦世界など偶像的なイメージがありますが。先生は、どのような印象をお持ちでしょうか。

<A>
幕屋や神殿の入り口は東にありました。至聖所は西に置かれています。
ヨシュアの集団がカナンに入る際に、いったんヨルダン川の東に入り、そこからヨルダン川を西向きに渡りました。
これは、明らかにカナンがエデンの園(つまり、至聖所)として考えられているからです(エデンの園も同じように、東に入り口がありました)。
キリストは聖書において「天地を照らすまことの光」と呼ばれており、太陽に例えられています。
キリストの犠牲は明らかに幕屋(神殿)における犠牲の成就であり、それゆえ、キリストは幕屋(神殿)の東の入り口から入り、ご自身を祭壇においてほふられ、大祭司としてご自身の血を携えられ、聖所に入り、隔ての幕を切り落とされて、最後に至聖所に入り、契約の箱に血を注ぎかけ、御民の贖いを成し遂げられたのです。
太陽はメシアを象徴しており、太陽が東から出て西に沈むと同じように、キリストもその順番で神殿礼拝を成就されたのです。
神殿礼拝は「霊とまことによる礼拝」の影であり、キリストが神殿礼拝を成就された後、礼拝は「聖霊の神殿であるキリスト及びクリスチャンの体」において行われます。
ですから、我々はユダヤのエルサレムで礼拝をする必要はなく、全世界我々の体があるところどこにおいてでも礼拝ができます。
キリストご自身が安息となられたので、キリストを信じているならばいつでも礼拝ができます。
ですから今日東西の区別をする必要はありません。どちらが高いかということについてこだわる必要はありません。
東西にこだわる必要性は、キリストの贖いが完了し、「霊とまことによる礼拝」の体制に移行したことにおいて消えてしまいました。
これは、「聖い食べ物と聖くない食べ物」の区別がキリスト本体の出現以降消滅したのと同じです。
こういった区別は、キリストという本体において成就し、実体が登場したのですから、不要になりました。

「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」(コロサイ1・20)

十字架後、すべてが聖いのです。東が低く、西が高いというようなこともありません。

しかし、我々が聖書を読む際に、象徴的表現を読解するためにはこういった知識は必要です。

ただし、聖書において東が劣っているというような記述はありません。

 

 

2007年1月28日

 

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