再建主義批判のサイト(米)への応答6


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再建主義において、主眼は、破滅へ向かう社会に住む失われた魂の救いから、キリスト教世界の再建に移されている。大宣教命令はこのように文化命令と同じレベルにまで落とされたか、それと混同されている。「キリスト教」再建主義は、新福音主義者が唱える「2つの」福音理論(霊的福音/社会的福音)と宗教的に近似しており、背教者が広める世俗福音(社会福音)と関係している。

[しかし、この時代のクリスチャンに対する神の命令は、地上に対する文化的支配の回復ではなく、大宣教命令の実行にある。聖書は、「終わりの日」「終わりの時」であるこの時代に関しては、大きな霊的・道徳的な低下を予言しており、その逆ではない(1テモテ4・1-2, 2テモテ3・1-6)。聖書が教える活動とは、大宣教命令の成就である(マタイ28・18-20)。(Sep-Oct '93, Fundamentalist Digest)] 

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(1)
まったく誤解している。我々は、失われた魂を救わねばならないと説いているのである。福音によって、失われた魂が神のもとに回復することが第一の目標である。しかし、我々はそこで留まらない。人間が神のもとに回復したら、次になすべきことは、万物の回復である。

今の福音主義の伝道とは、「幸福のチェーンメール」のようなもので、救われた人に向かって伝道者は「あなたは、自分がどのようにして救われたかを他の人に伝えてください。それだけがあなたのなすべきことです。」と伝える。そして、このような伝言の連鎖こそが大宣教命令の内容だというのである。そして、この世界は救いの対象ではないから放置せよ、という。

しかし、パウロは、神の子の現れは、被造物の回復のためであると述べている。

「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」(ローマ8・19-22)

クリスチャンはキリストの復活に与り、滅びの束縛から解放された。クリスチャンが登場することによって、被造物も滅びの束縛から解放される。人間は被造物の頭なので、人間が回復すると被造物も回復する。

これは、アダムが堕落したために、地がのろわれたのと逆の過程である(創世記3・17)。

キリストは万物の回復まで天に留まっておられる。再臨してから回復するのではなく、神の子が現れて、万物が回復してから再臨されるのである。

「このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時(原語で「回復する時」)まで、天にとどまっていなければなりません。」(使徒3・21)

(2)

新福音主義者が唱える「2つの」福音理論(霊的福音/社会的福音)と再建主義はまったく違う。我々は、霊肉二元論を支持しない。これは、ギリシア思想に源を置き、近代ヒューマニズムにつながる、異教的な考え方である。我々は、世界を霊と物質と2つの領域に分けて考えるべきではない。「霊ばかりでなく社会も関心を持とう」というような運動ではない。

我々の考え方は一元論である。霊と肉が統合され、連続している。霊的な回復は、全被造物的な回復の第一歩、基礎だと考えるのである。神がこの世界を管理するために人間に与えられたのだから、霊的に復活したクリスチャンが管理し、サタンからこの世界を守ろう、というのである。そのためにこそ、救われたのだ、と考えるのである。

我々は、世俗福音(社会福音)と関係していない。社会福音は、マルキシズムである。聖書に基づく改革ではなく、世の知恵による改革である。

 

 

2006年2月21日

 

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