不品行は絶対に正当化できない2


<Q>

ご返答にたいへん感謝いたします。

富井牧師からご返答いただいたメールはすべて保存するようにしているのですが、今回の件の質問へのご回答は紛失してしまったかもしれません。たいへん申し訳ありません。一年か二年前くらいに聖書の「淫行」「姦淫」についてと「婚前交渉」について質問させていただいた時にご返答をいただいたものは保存しております。

私も神への絶対服従を心に決めているので、聖書の内容を骨抜きにするようなことは絶対にしません。ただ、聖書の内容を拡大解釈して無意味な禁欲には縛られたくないとは考えています。

前回質問させていただいたことに関しては、具体的な聖書の聖句というよりも、「疑いをもってすることはすべて罪である」という原則に基づいて退けているというのが現状ではあります。

くどいと思われるかもしれませんが、もう一点だけ質問させてください。

>(1)女性を情欲を持って見ることは、山上の説教において明確に禁止されていま
>す。
>「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しか
>し、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すで
>に心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5・27-28)

「だれでも情欲をいだいて女を見る者」についてですが、「女」を「他人の妻」と解釈する人もいます。ギリシア語で調べてみるとgune{goo-nay}となっています。この言葉には未婚と既婚に関わらず女性一般を意味する場合と、妻(wife)を意味する場合があるとされています。おそらく「他人の妻」と解釈する人は後者を採用していると思われます。

富井牧師の用いておられる訳だとよりいっそう厳しい禁止になります。あまり評判のよくない翻訳ですが、新共同訳は、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」とされています。新共同訳だと、この禁止は未婚者ではなく既婚者に対する行為について述べたものになります。

富井牧師は、新共同訳のこの翻訳は正当ではないとお考えになられますでしょうか?

続けて質問させていただき申し訳ありません。よろしくお願いいたします。

<A>

この前の解答でも述べましたように、他人の妻だけではなく、第十戒では、「他人の所有するどのようなものであっても欲しがる」ということが禁止されているのですから、たとえマタイをそのように解釈できたとしても、「貪欲の罪」のゆえに禁止されると考えられます。

既婚女性を情欲を持って見ることは罪であるが、未婚女性を情欲を持って見ることが罪ではないなどという考えは異常であるとどうして気付きませんか?

私は聖書を拡大解釈して、禁欲を唱えることが大嫌いですが、この件についてはどんなに控えめに解釈したとしても、あなたの希望に合う結論はでません。

それでは、コンビニでクリスチャンはエロ本を立ち読みし、既婚者のページになると目をつぶらなければならないが、未婚者のヌードであれば見ることができると、牧師が講壇で語ることができるとでも思っていますか?

いいですか?この問題について強い人間などこの世に存在しません。
もし存在したとしても、それは人間を超越したスーパーマンか、偽善者のどちらかです。

私を含めて、世の男女を問わず、この問題で苦しんでいない人はいません。

しかし、私は、たしかに自分の弱さを感じつつも、涙ながらに悔い改めをし、絶えず神の赦しと憐れみを求めています。

私は、クリスチャンとして、この問題に対してこれ以外の対応は考えられないと思っています。

どうやったって聖書から「未婚者を情欲を持って見ることは許可される」など導き出すことはできません。

 

 

2004年6月18日

 

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