テトス2:11は普遍救済を教えているか?5


<O様>
昨今、普遍救済主義があちこちで説かれています。

先日のFEBCの放送でも、日本キリスト教団の某牧師が、マタイ福音書27:1〜10の講解メッセージで「ユダは自分の罪を悔いた。しかし祭司長たちはユダの罪と関わりを持てなかった。もともと人間は他人の罪と関わることはできないのです。だからユダは自分で決着をつけなければならなかった。しかし主イエスは違います。私たち一人一人の罪と向き合って下さる。そして、それを十字架の上で担って下さるのです。」

ここまでは結構です。しかし、次が「?」なのです。

「実にイエス様は、ユダの罪をも担って下さったのです。」

はい、そうかもしれません。ユダも「すべての人」に含まれますから。でも、このメッセージ、某牧師は明言されなかったけれども、「だからユダも救われたのです。」ということが言外に含まれている可能性が否定できません。

しかし、聖書によれば、ユダは救われませんね。

「しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(マタイ26:24)

救いは神様の永遠の御計画に基づく絶対恩寵によるのですね(使徒13:48)。

福音はすべての人に提示されなければならない。

だからクリスチャンには、大宣教命令が課されているのですね。しかし、残念ながら滅びの道をたどる人も存在するのは現実であり、聖書が説いている真実ですよね。

ヒューマニズムの毒麦が穂を実らせている。敵は実に巧妙に侵食を進めているようです。

<tomi>
おっしゃる通り、ユダは救われませんでした。

イエスはユダのためにも死なれたのは事実です。

しかし、ユダは、イエスのもとに来なかった。悔い改めてくればその赦しは彼に適用されたでしょう。

しかし、彼はへりくだることができなかったので、帰ってこれなかった。

「悔い改める」ことは救いの条件ですが、これは「悔いる」と「改める」の2つの要素が揃っていなければならない。

我々は「罪を悔いて」、「行動を改め」、神を主権者として服従する道を歩みはじめなければならない。

ユダは、罪を悔いることはしましたが、行動を改めることはしませんでした。

薬があるのに、薬に頼ることを拒んで死んでいく人々のように、彼は救いを受けるチャンスを自ら拒否しました。

自殺は殺人の一種であり、「神の主権への拒絶」です。

旧約律法において、律法への意図的な違反には赦しは存在しませんでした。その人は、契約から追い出され、異邦人と同じ扱いを受けるか、罪の種類によっては死刑に処せられました。

「過失」とか「後悔を伴う敗北」と違って、「意図的な違反」は、神の主権に対する挑戦であり、サタンと同じ罪ですから、祭壇の犠牲は適用されませんでした。

ユダも救われたとする普遍救済主義は、「神への主権を拒否する非契約者」にも救いを提供する不合理な教えです。

保険会社が、非保険者に保険金を払うでしょうか。

保険金を受け取りたいなら、保険会社と契約を結んでいなければならない。

アブラハム契約をはじめ聖書契約は、イエス・キリストの救いを適用するための契約でした。

契約に留まる条件は、「神の主権への従順」です。

意図的反抗者に救いが提供されるはずがないので、ユダに救いは提供されません。

 

 

2008年3月26日

 

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