日本の家屋でなぜ靴を脱いで入るのか


聖書において、契約に属する世界は、3段階の構造になっている。非契約的世界はその3段階の構造に含まれていない。

例えば、幕屋は、周囲の柱とそれを結ぶ幕によって外界と隔てられている。幕屋の境内の外は、契約外の世界を象徴する。救いから漏れた世界である。

救われた人々は、幕屋の境内の中に入る。

入るには門において犠牲を殺す必要があった。犠牲を殺さないで入ることはできない。これは、キリストの贖いを経ないで契約に入れないことを象徴する。

我々は契約に入るために、キリストを我々の罪の身代わりの犠牲として殺す必要がある。

神道の神社の構造は、幕屋の構造と酷似している。恐らく鳥居が赤いのは、この真理を表現しているのだと思う。

第2段階は、聖所である。神社では拝殿にあたる。

第3段階は、至聖所である。神社では本殿にあたる。

このように、契約のシステムの中に3段階の構造が見られる。

幕屋は契約内の世界を象徴する。だから、それは、エデンの園を象徴する。

恐らくエデンの園も、3段階の構造になっていたのだろう。

契約の民が救われることを象徴するノアの箱舟も、3段階の構造になっていた。

http://www.millnm.net/qanda3/55rg7dBbMP8I42900.htm

聖書において、契約の民ユダヤ人の家は、エデンの園である。契約の中にいることを象徴するため、出エジプトの際に門に血が塗られた。

契約の家には、災厄が臨まなかった。

だから、契約の民であるクリスチャンの家庭にも門に目に見えない血が塗られていると考えるべきだ。

恐らく、日本の家屋において、靴を脱がなければならないのは、この3段階の構造と関係しているのだろう。

門が第1段階、玄関が第2段階、そして、靴を脱いで第3段階に入る。

モーセがホレブの山で啓示を受けたときに、イスラエルの民に対してここは聖なる地であるから、履物を脱げ、と命じた。


神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」(出エジプト記3・5)

神の臨在の場所である至聖所に入る際に、祭司は靴を脱がねばならなかった。
http://www.orchos.org.il/torah/parsha/eikev.html

聖書では、神の臨在において、靴を脱ぐことが命じられている。

モーセが燃える柴に現れられた神の前に立ったときに、神は靴を脱ぐことをお命じになった。

神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」 (出エジプト記3・5)

日本の風習にイスラエルの影響があるとすれば、なぜ我々が家に入る際に靴を脱ぐのか明らかになる。

契約の民の家、クリスチャンの家は、エデンの園、幕屋、神殿なのだ。

それは、贖いの血が塗られた門によって外界と遮断されている。――日本の家屋がなぜ塀で囲まれているのか、これで説明できる。

そして、玄関において靴を脱いで神の臨在の場所に入る。

なぜ部屋と部屋、外と内を隔てるところに鴨居があるのか、意味があると思う。エデンの園はケルビム(天使)によって守られていた。鳥がいて、門番の役割を果たすという思想ではないのか。

日本人は契約の民の子孫であり、それゆえこのように習慣の中に契約的構造が隠されているのだろう。

 

 

2008年8月24日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp