試練を与えるのは人間ではなく神である


<Q>
人間の内面は主にしか分からないのだから「主に忠実な○○さんへ」という呼びかけはできないのではないでしょうか?

<A>
たしかに、人間は表面のことしかほとんど分からないのですが、聖書的に言えば、同胞のクリスチャンのことをある部分だけから判断して「聖徒」と呼んだり、「主に忠実な兄弟たち」と呼びかけることができます。

もし、その人のことを主しか理解できないならば、パウロはコロサイの人々に、「コロサイにいる聖徒たちで、キリストにある忠実な兄弟たちへ。」(コロサイ1・2)といわなかったでしょう。

<Q>
福音が純粋に保たれるには試練が必要であり、苦しみの中においてしか正しい働きは進まないのではないでしょうか。だから、教職者は貧乏に甘んじることも必要だと思います。

<A>
福音が純粋に保たれるにはたしかに試練が必要ですが、試練は神が決定することであって、人間はむしろ試練の中にいる人々をそこから救い出すのを助ける責任があります。

同胞のクリスチャンや、牧師、伝道師などが生活に苦しんでいるのを「それでよし」として眺めることを勧めている個所は一箇所もありません。

逆に、自分のことのように他人のことを心配して、助けることを命令しています。

「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ10・42)

「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」(マタイ25・31−40)

マタイ25章において、主にある兄弟姉妹が苦しんでいるのを傍観できる人は、滅びに至る人々であり、傍観できず、それを救おうとする人は救いに至る人々であると、はっきりと宣言されています。

試練を与えるのは人間ではなく神です。

 

 

2005年11月22日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp