第三神殿はキリストとクリスチャンの体を指している(再掲)


> 再びエゼキエル書について質問させてください。もし仮に、エゼキエル書の預言がイ
> スラエル共和国の建国と関係が無いとすれば、イエスキリストが十字架がかかられる
> まえにエゼキエルの預言する第三神殿は建設されていなければならなかったのではな
> いでしょうか?もしエゼキエルの預言の成就がキリストの十字架以前であるとすれば
> 第三神殿はいつ建設されたのでしょうか?

第三神殿は、キリストの御体なのです。
キリストが「三日目に建てる」と言われたのは、この神殿であり、それは復活を意味していたのです。

第三神殿を終末時期において再建される神殿と解釈する人々は、私のような解釈を「文字通り聖書を読んでいない」と批判しますが、もし文字通り第三神殿を石造りの神殿とするならば、これからエルサレムの岩のドームのわきに建つ神殿の中では、「罪のためのいけにえとして若い雄牛一頭…の血を取って、…贖いをしなければならない」という命令を文字通り実行しなければならない、ということになります。

もしそうならば、キリストの十字架の贖いはどうなったのでしょうか。十字架の贖いは、すべての動物犠牲の成就ではなかったのですか?

十字架の犠牲は、「一度限りの」贖いではなかったのではないでしょうか。

「ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。 」(ヘブル7・27)

「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。…これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。 」(ヘブル10・14、18)

事実、第三神殿を未来に期待する人々の中のある人は、この祭儀をつかさどらせるために「ツァドクの子孫のレビ人の祭司」(エゼキエル43・19)の子孫を見つけようとすらしています。

エゼキエルの神殿の細部の記述は、「イスラエルの家が自分たちの不義を恥じるため」(エゼキエル43・10)なのです。完璧な理想の神殿を描くことによって神の絶対の基準を示し、当時の民の罪を示すのが目的だったのです。

もしこの細部を忠実に文字通り成就しようとしたらとんでもないことになります。

神殿の敷居の下から東のほうに流れ出た水は、大きな、渡ることができないほどの川となり、「アラバに下り、海に入る」ので、「エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所になる」(エゼキエル47・8-10)と記されています。

「アラバ」とは、死海から紅海に至る砂漠地帯で、「エン・ゲディ」は死海の西側半ばにあり、「エン・エグライム」は紅海の北端の港です。

死海は、海面下400メートルのところにあり、エン・ゲディは死海から60メートル程上のところにありますので、エン・ゲディからエン・エグライムまで川ができるには、川の水は340m以上の落差のある勾配を上らねばならない、ということになるのです。

この神殿の細部の描写の非現実性はこの神殿そのものが象徴であるということを示しています。

もはや、石でできた神殿は再建されません。

イエス・キリストご自身が神殿であり、また、イエス・キリストにつながるクリスチャンの体が神殿なのです。

このエゼキエルの神殿は、イエス・キリストとクリスチャンの体を象徴しており、神殿から流れる川は、聖霊が全世界を満たすことを象徴しているのです。

 

 

2005年9月22日

 

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