派閥は損である



「『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」(マタイ3・9)

私は、再建主義とか、クリスチャン・リコンストラクション運動の唯一の紹介者であることを望んでいない。

「我々を通じてでなければ、その運動は異端だ」とも言うつもりもない。

どんどんやってほしい。違う経路からでも、いいじゃないか。

神の国が広がることが問題なのであって、我々を通じてでなければならないなどという問題ではない。

商売じゃないんだから。

私が「我々がいなくても、神はこの働きを誰かを通してやってくれるでしょう」というと、「いや、我々じゃなければだめなんだ」という人がいる。

私は、なぜそんなことをこだわるのか、と疑問に思う。

根っこの部分で他の野心があるのではないか、と疑う。

つまり、金儲けとか権力獲得とか、有名になるとか。

くだらない。こういうものを捨ててこないと我々の運動には入れない。

こういうくだらないものをパウロは、「損」と呼んだ。

ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3・4-8)

純粋な正統派のユダヤ人である出自をすべて損と考えている。

なぜ「損」なのだろうか。

我々の本当の働きの足を引っ張るからだ。

「○○派」のようなものを大切にすることによって、同じような働きをしている人々と協力できなくなる。

バラバラになる。

私は、誰の力も利用しようと思わない。もし、その人が私を進んで助けたいと思う以外は。

だから、私は、誰の派閥にも入らない。

誰にも気兼ねなく聖書の主張を訴えることができる。

もし誰かから金をもらい、その人の教えを説く以外の活動を封じ込められたのであれば、その人から離れる。

金を稼ぐためにやっているのではないから。

自分の同僚者が、あまりにも派閥を作りたがるなら、その人から離れる。

親分子分の関係を作って、神の国の働きに妨害が入るから。

神の国のこと以外は無欲な人としか組みたくない。

 

 

2009年11月25日

 

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