今ある権威に従うべき


<Q>
自分はこのごろ教会に嫌気がさしています。
なぜなら、信徒の皆さんが自分とまともな議論をしないからです。自分が日曜日に礼拝に行かなかっただけで随分と態度を変えました。そして〜なんですよと説明してもよく聞かずに自分の考えを述べるだけでした。

<A>
既存の教会を変えることはしないほうがいいでしょう。
自分にかなりの説明能力ができるまでは、黙っていたほうがいいでしょう。
じゃないと誤解されて、教会の鼻つまみものになります。

<Q>
また、自分は4〜5人の聖書の勉強会に入っています
テキストを使っています。毎回導き手は交代制になっています。やっている途中に論理的じゃないことを話してたり
テキストの方向と的外れなことを言っていたので
これは違いますよ。といいました。多少話し合ったのですが
なんかお茶を濁されて終わりました。

<A>
できるだけ調和を保ち、自分に意見があっても、それによって調和が乱れるならば、言わないほうがいいでしょう。
そこらへんは、常識を働かせましょう。
私たちは、レイピストではありません。
相手が嫌がるものを無理やり提供することは罪です。
他のクリスチャンが、我々を見て、知りたいという気持ちになるように我々がしっかりとみんなの利益を考える愛の人になるべきでしょう。
それでも、だめなら黙っていましょう。
教会の権威を乱すならば、自らに裁きを招くでしょう。

<Q>
これはほんの一例ですがたびたびこういうことがあります。
自分は詳しくないのですがいわゆる「敬虔主義」という考え方が背後にあるのでしょうか?
何か
「論じることよりも人との関係をスムーズにすべきですよ」
「口数が多いとだめですよ」
みたいな印象を受けます 何か自己満足というか自己神化
みたいな・・・
合理主義への反動のなごりがあるみたいな感じです。
論争を否定されます。
とにかく牧師に従順することや
理屈っぽいことを言わないこと
反論しないことが 敬虔みたいに捕らえる傾向があると思います
(やっぱり自分の通っている教会が韓国系だからかもしれません。)

<A>
これは議論以前の問題です。
まず、私たちは、その置かれた環境に適応しなければならない。
もちろん、それによって罪を犯すような環境なら別です。
そうじゃない場合は、その場において、神が立てておられる権威に従うべきです。
そして、その権威(牧師や長老)がやりやすいように助ける働きをすべきです。
だから、そのような場合、教会において自分の意見を出さずに、もっぱら人の喜ぶようなことを率先してやることです。そういう従順さがなければ、神は絶対に用いてくださいません。

神の道とは、「服従を通じて権威を与えられる」道です。

その権威がこちらの従順な務めを尽くしても、自分を追い出そうとするならば、しかたがないので、やめるしかありません。

それから教会出席についてですが、その教会が毎週出席するように求めているのであれば、毎週出るべきです。

<Q>
また、これは教会と関係ないかもしれませんが
論理的に議論する能力・問題解決能力を持ち哲学的な
(論理的)な思考ができる方が少ないと思います
こっちがまともなことを言ってもまともに話さなかったり
した例に何度も遭います
自分が未熟なのかもしれませんが妙です。

<A>
論理的に議論したいなら、そういう相手をどこかで探し、教会の人々を悩ましてはなりません。

<Q>
また、自分のような者が判断できませんが
先生のホムペへの批判する人たちをいく人か見ていると
同じような感じがします。
批判する対象を間違え(すりかえ)て批判しているし、
先生の反論をよく聞かずに言っているような気がします

<A>
このようなヤクザの人々と教会の兄弟姉妹とは別です。範疇がまったく異なる。

 

 

2009年11月26日

 

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