キリスト教思想は環境破壊を推薦する?


キリスト教の「被造物統治」の思想こそが、環境破壊の元凶だという人がいる。

これも、聖書の内容をまったく知らないで表面だけを見てものを言うからである。

聖書の「被造物統治命令」は、「エデンの園を全地球的規模に拡大せよ」と同値である。

神はまず人間に文明の模範を示すためにエデンの園を創造された。


神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。
一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。
その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。
第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。
第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。
神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」(創世記2・8-17)

園は川が流れ、潤っている土地、果樹が豊かに育つ楽園であった。四つの川が、エデンの源から流れていた。

聖書において、四という数字は世界を象徴する。四つの川がエデンから流れているということは、世界がエデンによって祝福されていることを象徴する。

つまり、神の臨在の場、人間に与えられた祝福の土地が全世界を祝福する情景が描かれている。

人間は、エデンの園を学校として神の理想の文明像を学んでから、その外に乗り出し、被造世界全体をエデンの園のように豊かな土地に変えるはずであった。

しかし、堕落して園から追い出されるという結末になるのだが、しかし、全世界のエデンの園化の使命は途絶えていない。その証拠にノアも同じ命令が与えられた。

さて、神の祝福をこのような豊かな自然として描く聖書が、どうして環境破壊を推薦することがあるだろうか。

イザヤは、被造世界の理想像を次のように表現した。

荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。
盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。
弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。
心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。
そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。
焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。(イザヤ35・1−8)

文化命令とは、自然を破壊することではない。

自然破壊や被造物の濫用は、聖書が命じたことではなく、悪魔の思想である。

悪魔の最終目標は、全被造物の破壊、滅亡である。

神が創造されたものをことごとく破壊することである。

悪魔は、悪魔崇拝者を利用し、キリスト教の名を語らせて、キリスト教の評判を落すようなことをする。

悪魔は、そういった騙しを行うから、我々は、簡単に騙されないようにしよう。

もしキリスト教は、環境破壊を推薦しているというなら、聖書のどの部分にそのような教えが記されているか示してほしい。

実際、そのような教えはないのだ。

律法は、戦争の際に、果樹を切り倒すことを禁止する。

長い間、町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧をふるって、そこの木を切り倒してはならない。その木から取って食べるのはよいが、切り倒してはならない。まさか野の木が包囲から逃げ出す人間でもあるまい。(申命記20・19)

環境は戦争に優先される。

この法則を犯したために多くの文明が滅亡した。

 

 

2008年5月21日

 

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