バルト神学は異端である2


バルトは、モダニズムも正統派キリスト教も「歴史は、神の計画の表現である」と考える点で間違っているという。モダニズムは、「人間は歴史において自分のプログラムを実行する」と言うし、正統派キリスト教は、「神は人間を通じて歴史の中でご自身のプログラムを実行する」と言う。

これに対してバルトは、「モダニズムであれ、正統派であれ、何らかのプログラムまたはシステムを想定した時点で、彼らは神に逆らっているのである」と言う。なぜならば、バルトによれば、神は主権者であるから。神は主権者である以上、究極的な自由を持ち、いかなるプログラムにも縛られないから。ヴァン・ティル曰く、


バルトによれば、主権者なる神は、ご自身が定めたプログラムにも縛られることができないし、また、縛られない。もし神が歴史においてあるプログラムにしたがって行動しなければならないとすれば、彼はもはや真に自由なる存在とは言えなくなるだろう。(Van Til, Karl Barth and Historic Christianity, The Presbyterian Guardian, 1937, Volume 4, page 108f.)

これは、自由の概念の履き違えである。神が、ご自分が定め給うたプログラムにしたがって活動することは、自由の喪失ではない。もしそれが自由の喪失であるならば、神はいかなる法も定めることができないし、また、その法に違反する者を裁くこともおできにならないということになる。

「絶対的自由」とは、「むちゃくちゃ」、つまり、アナキズムではない。神はご自身の属性に違反することはおできにならない。これは、「不能」ではない。これを不能と判断する者は、判断の基準を神以外のものにすえているからである。基準は神しかない。神の前に世界が存在しなかったのであり、神が無から世界を創造されたのであるから、神こそが最高基準である。神を裁く基準はない。

神の御性質こそが基準なのである。「全能」とは「神の能力」なのである。「神の能力」を「全能」と定義するのである。そこから出発すべきであって、神をも評価する基準を設定することはできないのである。

バルトにとって「自由」とは、神以外の基準によって定義された「自由」なのである。だから、「絶対的自由であるから、ご自分が定めたプログラムにも従う必要はない。だから、歴史にプログラムはない。」というような妙な判断をしたのである。自由の基準は、神ご自身のあり方である。神ご自身を自由の基準としなければならない。神ご自身は完全な自由をお持ちである。しかし、その完全な自由とは、「哲学的完全自由」ではない。つまり、「自分の定めたプログラムや法に従ってはならないという自由」ではない。完全な自由とは、聖書に記されている神の自由なあり方である。ご自身で歴史のコースをすべて制定され、ご自分で約束されたことを絶対的に成就し、ご自分で制定された法に絶対的に従われるあり方こそが、完全な自由なのである。

バルトは、神の絶対的自由という概念を「啓示的に」ではなく、「哲学的に」とらえてしまった。そのため、神をアナキズム的自由者にしてしまい、その結果「歴史に計画はない」という結論を出してしまった。

バルトの思索の根本には、この「神は絶対的に自由である」という命題がある。ここから「神の啓示は一時期、一地方に限定される『歴史的記述』であるはずがない。もしそうなら、それは神から自由を奪うことになる」という啓示観が生まれている。

バルトの根本的な欠陥は、認識論の原理を聖書に置かず、あくまでも人間理性に置いたことにある。

我々は、聖書に記されている神を万物の基準にしなければならない。神をも裁くことのできる基準を設定することは、「無から万物を創造された神」に違反する。

 

 

2006年3月27日

 

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