キリスト教は非合理思想ではない


(1)
ほとんどの人が誤解しているが、キリスト教は非合理思想ではない。

信仰イコール非合理という図式は成立しない。

キリスト教は、徹底して合理的である。

かたや我々が学校で学び、科学者が土台とし、圧倒的大多数の人々が信じているヒューマニズムは、非合理思想である。

なぜだろうか。

キリスト教は、存在、倫理、認識あらゆる領域の解釈に明確な土台があるのに対して、ヒューマニズムにはそれがないからだ。

例えば、ヒューマニズムは、存在論として「世界の偶然の成立」を根拠にするから、倫理を規定できない。

進化論的世界観の存在論に立てば、万物は偶然に出来たのであるから、普遍的倫理は存在しない。それゆえ、何が善であり、何が悪であるかは、時代によって、場所によって変わるとするのが自然である。

進化論を信じれば、倫理相対主義に陥る。すると、国家権力や世論がある人物を悪人と非難する場合、それは、その悪人にとって「時代(または場所)が悪かった」ということでしかなく、たまたま自分の価値観に合わない社会に生まれたということでしかなくなる。

宮崎勤が幼女を連続殺害しても、普遍的な善悪の基準がないので、誰も堂々と宮崎を死刑にせよと言えない。時代が変われば、英雄になるかもしれない。

なぜ法務大臣が死刑の執行にゴーサインを出すのを嫌がるかというと、法相に絶対的な価値基準がないからである。いや社会全体にそれがないからである。

ヒューマニズム社会において、倫理を主張することは、本来、原理的に不可能なのである。だから、人間の判断・行動も非合理に陥らざるを得ない。

何かを善とし、悪と宣言し、それを権力機構を通じて実行する際に、ヒューマニストは、自己矛盾したことを行うことになる。

「本来絶対的善悪の基準はないからこんなこと被告に宣言できないのだけど、でもあえてそれをします」としか裁判官は言う以外にはないのだ。

聖書的キリスト教は、「世界は神によって創造された。だから、世界の所有者は神だ。神は自分の所有物に対して主権を振るい、法を施行する権利がある。」と考えるから、倫理を主張し、法を施行する場合に首尾一貫しており、矛盾を感じない。

このように、もしあいまいさや自己矛盾、非合理性を嫌い、首尾一貫性を求めるならば、我々は聖書的キリスト教を信じる以外にはないのだ。

(2)
よく進化論者が、創造論を擬似科学と呼ぶが、噴飯ものだ。

進化論は、経験科学に基礎を置く。つまり、「経験したものにのみ基づいて知識を得るべきであり、何かのドグマを前提としない」と考えるわけだ。

創造論は、聖書教理というドグマを前提としているから、科学ではないと。

しかし、もし本当にドグマを前提としないのであれば、「これこれの科学は擬似である」と宣言してはならない。

なぜならば、そう宣言した瞬間に、その科学それ自体がドグマ化するからである。

つまり、自分の信じる科学が絶対であり、それ以外は偽りであると「いかなる経験的根拠もなく」宣言しているのである。

どうして自分の科学が絶対であると言えるのか。経験的データを集め、論証を積み重ねることによって、「経験科学だけが真正科学である」と証明できるか。

できるはずがないのである。

経験科学の帰納法的認識論を徹底すれば、手に持っているコップを放した次の瞬間に上にいくか下に行くか「絶対的確実性をもって」断言することはできないのである。

「下に行くに決まっているではないですか」というのは、経験科学の原理を知らない素人である。

万有引力の法則が絶対にいついかなる場所でも絶対に働くとどうやって証明するのか?

「いや、今まで100回やってそうでしたから・・・、当然類推によってそうなると予測できるではないですか」というのはご法度。

経験的アナロジーを用いるのは、演繹的認識論。

帰納法的ではない。

徹底的に帰納法的認識論に立つならば、科学は法則すら導き出すことはできないのだ。

XとYとZの3つのデータを結んで関数化することは、純粋に帰納法的な認識論からの逸脱である。

しかし、科学はこれを行わないでは成立しないから、「妥協的に」このように演繹的認識論を取り入れている。

XとYとZの値の間を結んでできる直線または曲線上の中間部分にある任意の点は、「帰納法的認識による値」ではなく、「演繹的認識による値」である。

だから、創造科学を擬似科学と呼ぶ人々の科学ですら、「擬似科学」なのだ。

創造科学と彼らの「擬似ではないという」科学の差は、質的違いではなく、量的違いである。

この議論は、18世紀に経験論においてすでに行われている。

創造科学を擬似科学と呼ぶ人々は、こういった認識論の議論を知らない。

まさに未だにデカルトを信じている科学「宗教家」なのだ。

(3)
聖書的キリスト教の土台がなければ、科学は成立しない。

個物に関する知識を普遍化・法則化する土台は、ヒューマニズムの世界観に存在しない。

聖書的キリスト教は、「宇宙には一人の神によって創造された統一体であり、統一の法則が、普遍的に成立しえる」と主張する。

しかし、ヒューマニズムの場合、そのような統一的原理は存在しないので、根拠なき類推を行う以外にはない。

だから、ヴァン・ティルは、ヒューマニズムは、父親の膝の上に座って父親の横面を叩く子供と呼んだのだ。

ヒューマニズムがキリスト教を否定するならば、自分の土台を崩壊させることになる。

それとも無神論を捨てて多神教に依拠するだろうか?

時代と場所によって異なる神が支配するとなれば、普遍的法則は成立しない。

科学を行うための土台はことごとく崩壊する。

だから、科学は、キリスト教的世界観の支配する地域において「のみ」長期的に発展したのだ。

経験科学の祖フランシス・ベーコンですら、カルヴァン主義クリスチャンであった。

科学とキリスト教は切っても切れない関係があることがお分かりだろうか。

<まとめ>

キリスト教は信仰による飛躍を奨励する非合理主義であり、それに対してヒューマニズムは、論理の飛躍を必要としない合理主義思想であるとると考える人が多い。

逆である。

経験科学を成立させている土台はキリスト教的世界観であり、それなるがゆえに、キリスト教的世界においてのみ科学は長期的に発展してきた。

近代から現代にかけてヨーロッパ文明が世界を包み込み、アジアであれアフリカであれ、あらゆる地域の文明はヨーロッパ文明の基礎の上に成立している。

現代の科学者や一般の人々は、この事実を忘れ、あたかもキリスト教に依存せずに独自に科学を発展させているかのように考えているが、まったくの誤解である。

学校教育において、このような謬説が教え込まれ、人々は洗脳されている。

もう一度歴史を振り返って真実を直視すべきだ。

 

 

2008年9月7日

 

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