良い仲間を選ぶ権利を子供から奪うな


山口の光市での爆弾事件で、校長が「この生徒がこういう行為をする背景(いじめ)を作ったことに責任を感じる」という内容のことを述べていた。

教育によっていじめをなくすることなど不可能である。

人間の本性は「いじめっこ」である。

大なり小なり人間には人を苦めて喜ぶ傾向がある。

どの時代にもどの社会にもいじめは存在する。

「いじめをなくそう」なんて言ったら1億年かかっても実現しない。

こういった人間の本性を変える試みは、社会主義の国々がやって失敗した愚策である。

学校でのいじめの対策は、生徒の本性を変えることにあるのではない。

もし変えたいのであれば、福音によって心を生まれ変わらせる以外にはなく、それは教育の働きというよりも聖霊の働きであり、自然の働きではなく、超自然の働きである。それは、学校の仕事ではなく、教会の仕事である。

(福音書を見れば、かつて「雷の子」と呼ばれたヨハネが聖霊による変革によって「愛の使徒」に変えられたように、聖霊による漸進的な内面の改革によって人間は違う人間に変えられるのである。
しかし、人間のいかなる力も方策も、人間の内面を変えることはできない。)

学校がやるべき対策とは、こんなものではない。学校ができることとは、いじめの「機会」を減らすことである。いじめっこがいじめられっこに出会い、いじめるチャンスを減らしてあげることである。

教会は内面の根本的変革を扱えるが、学校は環境を整備することしかできない。具体的には:

(1)ルール違反者を厳正に処罰する。他の生徒に対していじめ、嫌がらせをしている生徒がいれば、訴えに基づいて証拠をあげ、処罰する。

(2)仲間のえり分けができるシステムを作る。市場経済と自由社会の基本は、「幸福の追求」の権利にある。

聖書は「自由になれる機会があれば、自由になりなさい」と薦めている。

もしいじめられていてその環境が耐えがたいものであるならば、生徒が退学しないでも環境を変え、より快適な勉強の環境を作ることができるようなシステムを作ってあげることである。

中学も高校も大学と同じような選択単位制にして、時間や教科ごとに教師も生徒も変わるようにすれば、いじめの機会は劇的に減るだろう。

もしくは、学校に登校することすら嫌なら、インターネットで授業が受けられるように、教室にCCDカメラを設置して自宅学習ができるようにしてあげればよい。

我々大人だって、相性や道徳観などにおいて大きな開きがあり、なおかつ、その人と接触すると不快な思いをさせられたり、悪い影響を受ける恐れがあると分かれば、その人々から離れるだろう。

なぜ子供にはそういう選択の自由を与えないのか?

今の学校教育の基本的な考え方は、アメリカの教育理論に基づいており、そのアメリカの教育理論は、プロイセンの「社会主義、軍国主義的教育理論」に強く影響されているのである(Rousas John Rushdoony, Messianic Character of American Education, P&R)。

それは、「自分を社会の『単位』にし、大社会の一つの『コマ』になることが教育の目的である」と考える社会主義思想に基づいている。

アメリカ教育の父ジョン・デューイは、「子供は個人の才能を発達させるために学校へ行くのではなく、組織体としての社会の『単位』となる準備をするために行くのである。」と信じていた。

彼の師であるジョージ・S・モリス博士はヘーゲル主義者であり、「…教育は、子供中心ではなく、国家中心であるべきだ。ヘーゲルは、『子供は、社会の歯車として機能しない限り、個人としての価値はまったくない。』と考えていた。」と述べた。

「環境への適応」を重視する今日の学校教育は、20世紀において間違っていることが証明された19世紀の社会主義思想に基づいているのである。

人間はすべての人と調和して歩む責任があるなど、聖書のどこにも書いていない。

むしろ、聖書は、悪い人々から離れよ、と命令している。

「思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。」(1コリント15・33)

万人には、友達や仲間を選ぶ権利がある。

子供からこの権利を奪ってはならない。

 

 

2005年6月14日

 

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