責任は双方向である


ある人は、自分を受け入れない教会に対して辛抱強く変革しようとしている。

「粘り強く、あきらめない」というのは、正しい方向においてであれば美徳だが、そうでない場合は、「やりすぎ」である。

イエスは何と言われただろうか。


人々があなたがたを受け入れないばあいは、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。(ルカ9・5)

つまり、福音を持っている自分を受け入れない場合は、早々とそこから去り、絶縁を宣言せよ、と。

学園ドラマなどで、影響されると、あきらめないで不良生徒を指導し、立ち直るまで辛抱強く公私にわたって付き合う熱血先生を理想として描きがちだが、そんなのは幻想である。

学校で不良生徒がいて、学校の秩序に従わないのであれば、追い出せ。

規則に従いたくないならば、その時点でその組織から恩恵を受ける地位を捨てたのである。だから、出ていくべきだ。

義務を果たし、収入を入れて家族の必要を満たしている自分に対して文句をいい、罵倒し、家長としての尊敬も払わない配偶者や子供たちがいるならば、彼らに対して責任を果たす義務は彼にはない。

今の法律では裁かれても、神の御前では裁かれない。

自分が正しい指導をし、聖書的な教理を教えて、なおかつ離れていこうとしたり、献金を拒否したり、反抗する信徒がいるならば、自分にはもはや教える責任がない。教会の秩序を乱すならば、追い出せ。出入り禁止にすべきだ。

なぜならば、秩序を守る善良な人々に迷惑がかかるからだ。

そういった不良信徒に手を差し伸べる牧師は、秩序破壊を手伝っているのだ。

責任は双方向である。

無責任な人間に対してまで義務を果たす必要は我々には一切ない。

我々は、神と人と自分に対する責任を果たすことに集中しよう。相手の反抗や違反、秩序かく乱の責任にまで責任を負う必要はまったくない。

相手の反抗や違反や秩序かく乱の責任は相手にある。

相手に責任を取らせるべきだ。

 

 

2008年12月14日

 

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