律法はいのちを与えないか?13


<LUKE様>

ガラテヤ書でいう律法が、当時の律法主義者の「律法」であることには不同意ですが、

<tomi>

ガラテヤ書は、「割礼派」(2・12)の人々がガラテヤ教会の中に入って、人々を惑わせているという背景において書かれたことは文脈から明らかですね。

割礼派は、何を説いていたかと言えば、「律法によって救われる。割礼を受けなければ救われない。」と言っていた。

これは、律法の誤用なのです。

イスラエルの民は、「恵みの契約」の中に入っていたのです。そのしるしは、契約の箱です。

契約の箱の中の十戒の板は、贖いの蓋によって封じ込められていました。

律法は、イスラエルの民に対して剥き出しにされておらず、贖いの蓋でバリアされていた。

放射線廃棄物がしかるべき遮蔽物でバリアされているのと同じです。

もし十戒が剥き出しになったら、死んでしまいます。契約の箱を開けて中を見た人々は実際に死んでしまいました。

「主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。そのとき主は、その民五万七十人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。」(1サムエル6・19)

契約の箱が象徴しているのは、イスラエルの民にとって律法とは、「それを守らなければ死んでしまう」というようなものとして与えられたのではなく、「贖い主とともに与えられた」という霊的な事実です。

つまり、彼らは贖い主によって救われ、十戒によって、もろに要求をつきつけられない状態に置かれていたということです。

これは、今日のクリスチャンと同じです。クリスチャンは、神の律法を直接対峙しなければならないというわけではなく、イエス・キリストが贖罪者となり、イエス・キリストの弁護の影に隠れていられる。

イエス・キリストは、神の律法に対して、我々を弁護しながらこう言います。「彼らを裁かないでください。その裁きは私が負い、すでに代償を支払いましたから。」と。

それと同じように、イスラエルの民も、「贖いの蓋」によって弁護されていた。つまり、彼らも来るべきメシアの贖いの恩恵を受けていた、ということです。贖いの蓋は、メシアの贖いを象徴しているのです。

しかし、割礼派の人々は、律法をこのようには理解していなかった。

彼らは、「我々は剥き出しの十戒の板を見ることができる。」と考えていた。

福音書において「富める若者」がその典型です。彼は「そのような戒めはすべて小さい頃から守っています。」と言った。

完全に誤解している。神の要求水準はそんな生やさしいものではない。

誰でも十戒をつきつけられて、即死しない者はいない。彼らは、神の要求水準が絶対であるということを知らなかった。

そもそも律法は、贖われた民、つまり、契約の民に対してこのような意味を持っていない。

律法(原語トーラーは「導き」の意味)は、人々を正しい道に導き、生活を豊かにし、聖い生活を送らせ、神の民としてふさわしい歩みをさせるための指導書だった。

律法の「断罪する務め」は、すでにキリストにおいて成就しており、もはや、律法は契約の民を責めたてない。

だから、パウロがガラテヤ6・18で「律法の下にいない」と述べたのは、「剥き出しの十戒の板」つまり「破った際に、あなたがたを責めたてて、殺す使命を帯びた律法の下にはいない」と述べたのであって、「指導書としての律法の下にはいない」と述べたのではない。

図示するならば、

割礼派の人々の律法=剥き出しの十戒の板=違反者を滅ぼす

契約の民に与えられた本来の律法=贖いの蓋に覆われて安全化された十戒の板=違反者を滅ぼさない…神の民の生活指導書としてのいのちの律法

となります。

パウロが否定したのは、前者だけであって、後者ではなかった。

 

 

2005年10月14日

 

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