二重預言説について


<ストレイ・シープ様>

先生、ご無沙汰しています。山谷大尉殿は相変わらずですね。ところでここにリンクされていた、プレミレの先生は下記のような「アメリカのイラク戦を支持する」人々を支持している先生です。あまりまともに相手になされないほうがよいかと。

http://members.jcom.home.ne.jp/i-kawag/index.html/wariniraq.htm

「ネゲア」を「民族」の意味で捉えるとは。「民族」と捉えなくても、よく聞いているのが、イエスのマタイの予言は「二重写しの予言」です。つまり70年の破局とこれからくる破局を重ねているというわけです。前々から私もなぜ二重写しになるのか、根拠が不明でしたが・・・・。

<tomi>

書き込み感謝です。
イラク戦争賛成の先生なんですか。
侵略という不義から始まったイラク戦争に荷担し、日本もいろんな出来事に巻き込まれていますね。
「力でなんとでもなる」というネオコンの「パワー宗教」は、裁かれますし、裁かれて欲しい。裁かれなければ「力があれば、また、良い目的のためなら、侵略でも革命でも何でもしていい」というデタラメな世の中になります。

もう自分の言っていることを信じるためなら、正当な批判に耳をふさいで、正当な批判をする人間を異端呼ばわりすることも辞さないというのなら、破滅しか残っていない。小泉さんと心中するのはいやなので、私は、心を低くして神を恐れることをしたいと思います。

さて、プレ・ミレの人々が採用する「二重預言説」は、聖書的解釈法ではありません。

もしこのような解釈が通用するならば、正統的解釈法が採用する「歴史的解釈法」は完全に否定されます。

つまり、「時代背景を考慮して、どのような聖書記者がいつ、どこで、誰に向けて、どのようなことを教えているのか?」という歴史的文脈を重視し、そこから聖句の正しい解釈を得ようとする態度は否定されます。そして、「歴史的背景や文脈に関係なくすべてが現代のクリスチャンに対して向けられている『直接的』教えである」と考えてよいということになります。

たとえば、ヨナ書は、歴史的解釈法によれば、紀元前8世紀のヨナが当時のアッシリアのニネベの人々に向けて書いた預言書ということになりますが、二重預言説では、それは現代人への『直接的』啓示であると考えてもよい、となります。

これはナンセンスです。現代人は、ヨナ書の内容を時代背景、歴史的文脈を厳密にふまえた上で、その中から「普遍的教訓」を読み取るべきであって、それを自分たちへの「直接的」啓示と考えることはできません。

たとえば、「これは、現代のニネベの人々にも向けて記された預言だ」と考えることはできません。ニネベは今はありません。どうするのでしょうか?「それは当時のニネベがあった付近に住む現代の人々に向けて書かれている」とでも考えるのでしょうか。

歴史的解釈法は、私たちが普通の手紙などを読む際に採用する方法であり、きわめて常識的なものです。

私たちは昨日自分あてに届いた手紙を「自分に向けて書かれた直接的内容」と考えますが、100年前にイギリスの王様に届いた手紙を「自分に向けて書かれた直接的内容」とは考えません。

二重預言説を唱える人々は、「聖書は神の啓示だから普遍性がある」という真理を、間違って「だからあの当時の歴史的文脈において語られた言葉を現代の我々の歴史的文脈に適用して解釈してもよい」と考えています。

こうなると、聖書の中の時代限定語句はすべて無効化します。

マタイ24章においてイエスが「これらの前兆は『この世代』つまり、今から30-33年の間に起こる」と明言された以上、その時間的限界を越えて、現代人への預言と考えることはできません。

こういう解釈を「読み込み解釈」と言います。

我々はそこから「普遍的教訓」を読み取ることはできますが、「時代的直接的戒め」を読み取ることはできません。

 

 

2004年4月10日

 

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