この世に中立は存在せず、倫理的真空も存在しない


カルヴァンの時代にはまだ「中立の幻想」があった。つまり、「この世界には神でもない悪魔でもない領域が存在する。」という考えが通用していた。

だから、カルヴァンは、この世界は普通法によって統治されてもよい、と考えた。

しかし、彼は同時に申命記講解において、セオノミー(旧約律法)を実際生活に適用せよ、とも言った。

つまり、まだ問題が先鋭化していなかったのである。

ローマ・カトリックは、ずっと自然理性を認め、中立の領域が存在すると考えてきた。

つまり、カルヴァンもカトリックも程度の差こそあれ、中立の領域を認めるという意味において一致していたのである。

しかし、現代になって中立の領域を認めることが、敵の側の侵入を許すということが明らかになってきた。

たとえば、公立学校において教育は中立だという理念のもとに授業が行われてきた。その結果、次第にアメリカはクリスチャンの国からノンクリスチャンの国に変わった。

近年、公立学校における授業開始の祈り、十戒の掲示が禁止されてきた。ノンクリスチャンは、クリスチャンの習慣を「中立」な教育の現場から排除しようと唱えてきた。

政教分離は「中立の幻想」の上に築き上げられている。宗教的に中立状態が存在するならば、政教分離も可能であろうが、政治は不可避的に宗教的である。

妊娠中絶法に関して宗教的に中立の立場など存在しない。クリスチャン的倫理に従うか、それとも従わないか。

中絶を自由化する法律は、聖書の「殺してはならない」に対する違反であり、それゆえ、宗教的である。


「ヴァン・ティルによれば、ノンクリスチャンの哲学は、回答を必要とする問題に関してある選択(または排除)を行う場合に、中立ではありえない。その証拠もなく、あからさまな挑戦に対する回答もないくせに、最初から、すでに、その自律的認識論にしたがって先入観を抱いている。・・・ヴァン・ティルは、『最初の最初から、認識論上の問題に関して偏見が存在する。』と述べた(Christian-Theistic Evidences. Phil: Westminster Theol. Sem., 1940, 1947 (syllabus); Phillipsburt, N.J.: Lewis J. Grotenhuis, 1952 (syllabus). In Defence of the Faith, vol. 3. Philadelphia: P&R, 1974.)。」

つまり、ノンクリスチャンは、色メガネを最初からかけているということである。

よくノンクリスチャンは、クリスチャンに向かって、「この問題については、信仰のメガネをとって判断してほしい」というが、我々人間は「クリスチャンの信仰」というメガネをとっても、「ノンクリスチャンの信仰」というメガネをかけているのである。

「メガネをかけない」という状態はありえない。

なぜならば、誰も「自分はメガネをかけず中立的な判断をしている」と証明出来ないから。

「神は存在しない」というのも一つの信仰であり、それが正しいことを示すことは一切できないのだから。

中立は幻想である。

偏見のない人はいなし、先入観に支配されていない人もいない。人間は、神に関して、善悪に関して、根拠のないまま判断をしているのであるから、みな宗教人である。

「○○は悪い」とノンクリスチャンが言う場合、「なぜ?」と聞かれても彼らは答えられない。

だから、万人は、一瞬一瞬の判断において、「神にしたがっているか、それとも、逆らっているか」のいずれかしか行っていないのである。

中立に判断できる人間はいない。すべての判断が神の裁きの対象になる。

その意味において、自然法や人間の自律法なるものが神の世界の中に存在できる場はないのである。聖書律法と自然法を並べてどちらか選択しなければならないとしたら、クリスチャンは聖書律法を選択しなければならない。

なぜならば、聖書律法は啓示された神の言葉だが、自然法はそうではないからだ。

一般恩恵や中立を持ち出して、聖書律法を回避し、自然法など人間の創作を採用するクリスチャンは、実は、神に逆らっており、それゆえ、サタンに味方しているのである。

中立は存在せず、倫理的真空も存在しない。

 

 

2006年4月3日

 

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