ヒューマニストには科学をする権利がない


ヒューマニズム(人間教)にとって、知識の土台とは人間の理性である。

人間から出発してすべてをチェックする。

デカルトは我思うゆえに我あり、と述べた。

「この世には迷信や宗教的教理など、疑わしいものに囲まれている。だまされないためには疑うことだ。」と。

「しかし、疑うことができないものがひとつだけある。それは、疑っているという自分だ。これを疑うことは不可能だ。」と。

「だから、この疑う自分を知識の確実な土台としよう」と。

これが、近代の人間の認識論の出発点である。

疑っている自分が触っているコンピュータのキーボードこれも存在する。

キーボードを打ち込むと文字が画面に現れる。だから、コンピュータは存在する。

と、このようにして、認識を拡大していく方法。これが、人間にとって確実な知識獲得の方法だとした。

つまり、科学的に確実であるものを認識できるとしようと。

しかし、これに対して、イギリス経験論は、するどい突っ込みを入れた。

たとえ目の前にりんごがあるとわかったとしても、りんごの意味についてどうしてわかるのかと。

死後の世界については、科学ではデータが集められない。

じゃあ、どうして死後の世界はないと証明できるのかと。

神はいないとどうして証明できるのか。

このようにして、「人間から出発する認識論」はすぐに限界に直面した。

ものごとをつきつめて考えると、結局、人間はこれらの「意味の世界」「宗教の世界」について確実に知りえないのではないかとの疑問を呈した。

実は、ヒューマニズムはいまだにこの限界を解決する方法を知らない。

ヒューマニストがキリスト教を批判し、「神はいない」と叫ぶときに自分で矛盾していることをしている。

証明できないものを断定しているのだから。

人間から出発する認識論には重大な欠陥がある。

ヒューマニストは、神を否定するときに、「知識の確実な疑いようのない自分の存在から出発し、ひとつひとつ確実なものだけを受け入れる」という前提を捨てざるをえない。

神について言及することは、大ジャンプであり、いくつもの証明すべきことをすっとばしているからだ。

人間から出発する認識論では、科学は成立しない。なぜならば、法則を発見することに意味がなくなるからだ。

今Aという法則があることがわかったとしても、次の瞬間にそれが必ず適用されるかどうか証明できない。

「法則は地理的・時間的に普遍的に適用できる」とするのは、証明できないことである。

「これまで100万回手を離したらコップは下に落ちた」という事実は100万1回目に落ちることの証明にならない。

「法則は地理的・時間的に普遍的に適用できる」というのは信仰であり、証明できない前提である。

だから、ヒューマニストが科学を行う場合に、彼らは自分の立てた前提に違反せざるを得ない。

しかし、キリスト教の場合、科学は違法なことではない。

一人の神が世界を創造され、法則を立てられ、その法則は地理的・時間的に普遍的に適用できる、という聖書の教えがあるからだ。

キリスト教は、科学的法則に有効性を与えることができるが、ヒューマニズムにはそのような前提を立てられないので、科学が成立しない。

だから、ヒューマニズムは、キリスト教を否定しながらキリスト教に依存している。

ヴァン・ティルは、神を否定するヒューマニストのことを「父親のひざの上に座って父親の顔をたたく子供」と呼んだ。

ヒューマニストには科学をする権利がない。

 

 

2010年3月15日

 

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