失敗は悪ではない


日本では失敗をことさらに悪いことと考える傾向がある。

しかし、失敗はむしろ善である。

なぜだろうか。

ソ連を築いた共産主義は、失敗を悪と考える。失敗しないためには、生産者を限定しなければならない。なぜならば、競争があるからこそ、失敗する会社が出て、路頭に迷う人々がでる。

失敗を防ぎ、みんなが幸せになるためには、競争を排除し、企業を国有化し、独占的に生産させる以外にはない、と。

するとどうなったかというと、市場に不良品が大量に出回るようになった。競争がないから消費者には選択の権利がない。だから、不良品でも購入する以外にはない。

ソ連時代に、レニングラードに住んでいたころ、運動靴を買いに出かけた。靴底には、重たいゴムが張り付いており、とても使用できるしろものではない。

友人は自転車を買ったが、すぐに壊れてしまった。

ロシア人は、外国製、とくに日本製が優秀であるということで、我々が通りを歩くすぐに様々な人が声をかけてきた。我々が身に付けていた時計やジーンズを買いたいという。

競争を排除すると、消費者は奴隷になる。

だから、競争は善であり、成功も善であり、失敗も善である。

子供の人生から失敗を取り除いてあげようとするのは親心として理解できなくもないが、しかし、間違いである。

親がしなければならないのは、失敗を乗り越えてしぶとくチャレンジする強い心である。

戦後の日本の体制は、共産主義の実験場であった。日本はこの年功序列の社会主義体制の中で見事に成功を収めてきたが、最近、ついに無理がたたって病気が出始めた。

国有企業は次々とつぶれ、民営化された。

事件の起きる前に私がホリエモンを評価していたのは、彼が競争社会を善と見たからである。若い人の中にこういうチャレンジ精神を持つ人物があわられたのを喜んだ。

ズルをやらなければ、彼は確実に英雄になれただろう。

競争を排除し、失敗を悪と見ることは、必然的に成功者からの搾取を伴う。

考えてみてほしい。一生懸命勉強して、優秀な成績を収めた人の点数を強制的に、怠けて成績の悪い人の点数に加えなければならないシステムの学校があったとする。誰が行きたいと思うだろうか。

累進課税制度とはこのような制度なのだ。

社会はこの税制のもとで確実に活力を奪われる。人々は努力をしたくなくなる。

失敗を悪と見る社会は、努力する人々を罰し、怠ける人々を応援する社会だ。失敗は善である。もちろん、自分の不徳による失敗は反省しなければならないが、失敗そのものは悪ではない。

神はこの世界をリスクの世界として創造された。

ケガをして出血すると、自然に傷口が回復するシステムが肉体に備わっているのは、その証拠である。

悪いのは、失敗してへこたれる弱い心である。

 

 

2007年8月16日

 

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