クリスチャンの業はキリストの業と見なされる


一つの迷信がある。

それは、「人間がやったことは、善であれ悪であれ消えてしまう」という。

これは唯物的進化論が作り出した虚構である。

この宇宙は創造されたものだ。その証拠はいたるところにある。

しかし、人間はそれを否定する。なぜか。

自分が犯した悪を消したいからだ。

自分の願望を優先したために、人々はこの宇宙を非創造物にし、自分の犯した罪は闇に消え、誰も知っている人はいない、と考えた。

しかし、この宇宙は創造されたものであり、そこには計画があり、意図がある。

だから、我々のなした業はすべて記録されている。

神が人格的なお方であり、法を制定された以上、違反者は処罰する以外にはない。

法を制定されていなければ別だ。

しかし、この宇宙は法によって支配されている。

だから、この法秩序を維持するためには、違反者を処罰せざるをえない。

もし日本国が、警察を通じて違反者を取り締まり、裁判所で処罰を決定し、行政がその違反者に処罰を下さなければどうなるだろうか。

違法者が無数に増え、秩序は崩壊する。

だから、法秩序がある以上、その法に違反した人は必ず罰せられる。

神の法秩序である宇宙において行われた業はすべて神の裁判にかけられる。

神は罪人を裁かざるを得ない。

「死んでしまえば、あとは無だ」などと考えている人は、勝手にそう考えているに過ぎない。イエスはこう言われた。


人には一度死ぬことと、死んだ後に裁きを受けることが定められている。

我々の行為はすべて記録され、賞罰を待っている。

一つ一つに審判が下る。

キリストがこの地上に来られたのは、我々が犯した罪の刑罰を身代わりに負ってくださるためだ。

我々が、キリスト契約に入り、キリストと一体になるときに、キリストとともに裁かれる。

十字架の刑罰が我々に適用される。

だから、我々は神から「もう処罰は終わった」と宣告される。

我々はキリスト契約の中に留まる限りにおいて、完全に無罪である。

そして、さらに、我々が行った業はすべてキリストを通じて完全化される。

我々の善行は穢れている。偽善で汚れている。

しかし、この薄汚い善行もキリストの名によって行うならば、浄化されて、完全なものとなる。

神は我々が行った業をキリストが行ったとみなしてくださるのだ。

キリストの契約の中にいるということは、キリストの細胞となることだ。

だから我々が行ったことは、キリストが行ったことに等しい。

我々が出した老廃物は、キリストの御体の肝臓で無毒化され、腎臓で濾過される。

逆に、我々が取り込んだ栄養素は、御体において、必要な部分に届けられ、体の成長のために利用される。

我々と、他のクリスチャン、そして、キリストご自身は一心同体であり、有機的につながっている。

だから、すべての行動は、絶対に忘れられるということがないのだ。

善であれ悪であれ、必ず神が賞罰を下される。

クリスチャンとノンクリスチャンの違いは、キリストの名で行うか、それとも自分の名で行うかの違いだ。

ノンクリスチャンは自分の名で行うから、その責任を自分が取らなければならない。

我々クリスチャンの善行はキリストの業として永遠に覚えられ、神がそれを有効活用してくださる。

 

 

2009年10月30日

 

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