おくびょう者の受ける分は・・・


本当のクリスチャンと偽者のクリスチャンを分ける一つの基準は、「勇気」である。


彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。…」(申命記20・3)

契約の民イスラエル、新約時代においてはクリスチャンは、「おじけ」づいてはならない。

サタンとの戦いにおいて、恐れてはならない。うろたえてはならない。

偽クリスチャンは、「おくびょう者」である。

「地を従えよ」「サタンに立ち向かえ」という命令を聞いてしり込みする人間の受ける運命は永遠の地獄である。

しかし、おくびょう者…の受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。(黙示録21・8)

19世紀にディスペンセーショナリズムが始まり、クリスチャンが進化論とともに流行りだしたその教えに巻き込まれたのは、「無作為」を正当化するからだ。

ディスペンセーショナリズムを信じれば、「地を従えよ」との命令を回避できる。

「もうすぐ再臨だ。世の終わりだ。だから、地上のことはノンクリスチャンに任せて、クリスチャンは教会と宗教の分野に限定して活動してよいのだ」ということになった。

ディスペンセーショナリズムは、臆病者が生き残ることができる教えだった。

この異端は、急速に世界中の教会を席巻した。

世界のほとんどのクリスチャンが、臆病風に吹かれるようになった。

そして、戦いを回避した。

その間に悪魔はやりたい放題できるようになった。

敵である教会が無為無策になったので、世界中で紛争を巻き起こし、2度の世界大戦を起こし、革命を起こし、無数の人々の虐殺を達成した。

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(2テモテ1・7)

臆病は、異なる霊の仕業である。

我々はそれを追い出して、クリスチャンの本来の姿に戻るべきだ。

 

 

2010年5月17日

 

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