黙示録講解1



イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。
ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。
この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。
ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。常にいまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、
また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、
また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。 (1・1-6)

黙示録は長い間難解な書物と言われてきた。
それは、正しい読み方をしてこなかったからである。
黙示録は手紙である。
ヨハネから「アジヤにある七つの教会」に向けて記された手紙である。当時、使徒の手紙はクリスチャンの間で回覧されていたから、間接的な読者は「当時のクリスチャン」である。
ということは、「アジヤにある七つの教会」や当時のクリスチャンが読んで分からないことが書いてあるはずはない、ということになる。
たとえば、13章の666をこれからヨーロッパに現われる反キリストと読む人々が多いが、「アジヤにある七つの教会」や当時のクリスチャンが、2000年後のヨーロッパに現われるだろう特定の人物について警告されても意味がない。
ということは、666とは、彼らが聞いて理解できる人であった、ということが分かるだろう。
聖書のすべての書について言えることだが、「直接の読者が理解できないようなことは書かれていない」という原則を確認し、自分の視点を当時の書き手と読み手の人間関係の文脈の中に置きながら黙示録を読み進まなければならない。

(1)
「イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。」

ここに黙示録の目的が書いてある。
それは、「すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため」である。
ここで「しもべたち」とは誰のことを指すだろう。
もちろん、アジヤの七つの教会の人々であり、回覧された手紙を読む当時のクリスチャンである。

これらの直接的・間接的読者にとって「すぐに起こるはずの事」とはいつ起こることだろうか。もちろん、「その当時から見て近未来」であろう。彼らが死んでから約2000年も経った西暦2005年のことでないことは明かである。

この手紙全体に漂う緊迫した雰囲気は、「近未来の審判の予告」というこの書のテーマと合致している。

「すぐに起こる」
「時が近づいている」
「わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」
「しかり。わたしはすぐに来る。」

これだけ読者に対して「すぐに」「近い」を連発して、「実はあれは2000年後のことだったんですよ」と言い訳できるだろうか。もしそうなら、この手紙の原作者であるイエス・キリストとは、とんでもない食わせものだということにならないだろうか。

黙示録の預言を紀元1世紀の歴史的文脈の中に置かない解釈はすべてことごとく間違っている。

ここで「すぐに起こる」と言われたら、素直に「紀元1世紀のクリスチャンから見てすぐにだな。」と判断すべきだし、また、この手紙全体が「警告」でもあるわけだから、彼らの存命中に起こると考えたほうがよいということにもなるだろう。

 

 

2005年3月2日

 

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