神の国とは?2


<I様>
いつも尊い働きを感謝しつつHPを拝見させていただいています。
突然ですが、今学んでいるみことばで理解できないところがあるので、
質問してもよろしいでしょうか。

掲示板にも書かれてありました、『神の国』のことに関してです。
マタイ11:12に「神の国は烈しく襲われ、奪われている。」と書かれて
ありますが、誰が、何の目的で襲っているのでしょうか。

<tomi>
この個所は、福音を聞いた人々が神の国に入り、神の国の祝福を得たいと願うあまりに、それに殺到し、我先にと奪っている状態を表します。

バプテスマのヨハネが現れたときから、イスラエルは最後の刈り取りの時代に入りました。

刈り取りとは、良いものと悪いものがはっきりと選別されるときです。

脱穀のとき、実は倉に収められ、わらは火の中にくべられるように、本当の神の民は救われ、そうではない人々は滅びます。

本当の信者は、神の国を愛しており、その程度は激しく、まさにそれを得ようと殺到していました。多くの人々がヨハネから洗礼を受けました。

しかし、パリサイ人をはじめ当時の宗教指導者たちは、救いの必要性を感じなかったので、ヨハネとイエスに対して冷淡でした。

審判の時代になると、その人がどのような信仰を持っているかがはっきり現れるようになります。

最初は見分けがつかなかった麦と毒麦も、刈り取りの時期になると、麦は麦の形に、毒麦は毒麦の形に成長します。

<I様>
また、すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までであり・・・
と書かれてありますが、実際には旧約で世の終わりまで預言されています。
イエス様は何のことを言われているのでしょうか。

解きあかしてくださると幸いです。

<tomi>

(1)
たしかに旧約聖書において終末までの預言がありますが、しかし、それだけでよいというわけではありません。

神は、ヨハネを預言者として任命し、イエスの到来を預言させました。

彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。(マルコ1・7)

ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。(ルカ3・16)

また、パウロは、新約時代において預言があると明言しています。

私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。(ローマ12・6)

男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。(1コリント11・4)

(「これは旧約聖書から新約聖書に移り変わる時代、まだ正典が形成されていない時代だから預言があったのだ」という意見が幅をきかせていますが、証拠成句はまったくありません。)

だから、預言はヨハネで終わった、ということをここで言おうとされたのではないということは明らかです。

(2)
この個所は、11・20-24とのかねあいで見なければなりません。

11・20-24において、イエスは、「コラジンやベッサイダ、カペナウムの罪は、ツロ・シドン・ソドムよりも重い。なぜならば、ツロ・シドン・ソドムは、『力ある業』を見ていなかったが、コラジン・ベッサイダ・カペナウムはそれを見たから。」と言っておられる。

ここで、旧約時代と新約時代の違いの一つは、「力ある業」を見ているか見ていないか、の違いだということが分かります。

パウロは、旧約時代は「影(つまり、モデル)」であり、新約時代は「実体(つまり、本物)」であると述べています。

イエスは、さらに、旧約時代において最も優れている「バプテスマのヨハネ」は、新約時代にやってきた「天の御国」のもっとも小さい者よりも劣っていると述べられた。

つまり、この文脈は、「旧約時代の栄光と恵み」と「新約時代の栄光と恵み」の対比をしている個所なのです。

ヨハネは最後の旧約預言者であるが、しかし、イエスの準備者でもあったので、新約時代の預言者でもある。彼は、旧約時代の栄光も表すし、新約時代の栄光もわずかに見せている。

人々は、新約時代の栄光と恵みをヨハネのうちに垣間見、イエスのうちにその完全な現れを見て、そのあまりのすばらしさに、争うようにしてそれを求めている。

(まとめ)

「すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までであり・・・」という訳は「預言は旧約までだ」という誤解を与えるかもしれません。

この個所は、新改訳のように、「ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。」と原文に忠実に訳したほうがよいと思います。

文脈は、「預言は旧約時代までだ」ということを言おうとしているのではなく、「旧約時代は預言で『間接的に』しか知ることができなかった」ということを述べているのです。

新約時代には、「直接的に」神の御業を見ることができる。

だから、人々は殺到するし、拒否する人々への裁きはいっそう厳しくなる。

 

 

2005年5月26日

 

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