神が日本に用意されている第3の道


(1)
TVで西部進氏が、「無宗教の施設で戦没者を慰霊するというが、無宗教とは最悪の宗教であり、どこの国においても戦没者については宗教的な慰霊を行っている」と語っていた。

無宗教なんてものは、この世に存在しない。人間は一瞬一瞬善悪の判断をしながら生きているのであり、それゆえ、宗教から離れた人間の活動など存在しないのだ。

ただし、現代人が考える「無宗教」が最悪の宗教かどうかは議論を要する。

現代人が考える「無宗教」とは、ヒューマニズムである。

これは、古代ギリシアにまでさかのぼり(もっとさかのぼればバベルの塔、さらに、エデンの園の善悪の知識の木の前にたどり着く)、ルネサンスを経て、デカルトに至り、彼によって認識論的にはっきりと定義され、カントにおいて世界観として明確化された考えである。

これは、人間を至高者とする「人間教」である。

現代の近代国家はほとんどが「人間教」の国家であり、人間が善悪を決定し、その倫理基準に基づいて法律を作っている。

聖書では、偶像(つまり、聖書の神ヤーウェ以外の神)を礼拝することは、悪霊を礼拝することにほかならないと述べているので、今日「無宗教」と呼ばれるものは、悪霊崇拝である。

ヒューマニズムの悪魔性は、フランス革命やロシア革命などの人間中心主義の政治体制においてはっきりと現れた。無数の殺戮と粛清は単なる政治的な現象として理解できない。あれは、悪霊の仕業である。

(2)
西部氏は、「日本は古来神道によって成立した国であるから神道の形式で慰霊するのがよい」と主張していた。

私は、神道の形式での慰霊に反対である。

現在の神道は、八百万の神、つまり、多神教であり、アニミズムである。

一神教に比べて、多神教は寛容だなどという誤解が広まりつつあるが、史上最悪のキリスト教徒への迫害が起こったのは、ローマと日本という多神教の体制においてであったということを忘れないようにしよう。

また神道が国教となっていた戦時の日本においても、キリスト教や大本教などに対する熾烈な弾圧があったことも忘れてはならない。

「多神教だから寛容だ」とか、「無宗教だから偏向していない」なんていう妄言をやめよう。

問題は「悪霊崇拝」にあるのだ。

神道の多神教も、「無宗教」という名の人間教も、どちらも、悪霊崇拝であり、エデンの園において人間が騙された教えに等しい。

サタンはエデンの園において、「これを食べると、あなたは目が開け、神のようになれます」と誘惑した。

サタンが狙ったのは、人間に、自分が作った道徳基準で生活させることである。

人間にとって、それは神の下にいる状態からの解放であり、自由への道であるかのように見えた。

しかし、それがサタンによって提供されたものである以上、結局は、サタンの奴隷に至る道しかなかったのである。

だから、「無宗教」という名の人間教であれ、多神教の神道であれ、善悪を人間が決定できるという前提で営まれている宗教は、いずれも悪霊崇拝であり、しまいには悪霊によるがんじがらめのコントロールと、滅亡に至る以外にはない教えなのである。

日本の知識人は、この点を理解していただきたい。

(3)
我々が、再建主義だけではなく、日猶同祖論問題にも導かれたのは、日本人に第3の道を提供するためであると考えている。

今の選択肢では、ヒューマニズムから離れた人々は、多神教に行く以外にはない。

「礼儀正しい日本人、豊かで治安のよい日本が、消えてしまった。これは、無宗教に原因があるのだ。」と叫ぶ人々が今、「だから、神道という日本の伝統に帰ろう。」と言い始めている。

これは、狼の穴から逃げた人が熊の穴に入るようなものだ。

人間は真の神のもとに帰る以外に方法はない。

だからといって、日本人がまったくなじみのない外国の神を信じなさいといっても無理がある。

神は日本人のために、もっと受け入れやすい選択肢を用意してくださった。

それは、「日本人が古来崇拝していた神とは、実は聖書の神であった」という事である。

私はこの日猶同祖論問題は、10年ごとに転機があると考えているが、まさしく予想通り、今年からにわかに「十部族問題」が浮上してきたように思われる。

私の中で、イスラエルの十部族が日本に定着したという考えが事実であるように思えてきた。

神が今年か来年に日猶問題に関する新たな事実を明らかにされると考えている。

日本人が神のイスラエルの子孫であるということが明らかになる以外に方法はないと考えている。

 

 

2005年6月5日

 

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