権威のヒエラルキーを無視するな


(1)
最近の父兄は、教師に対して「先生は、うちの子のことをわかってくれていません」と文句を言うらしい。

これは過大な要求である。この世界において、他人はほとんど自分を理解してくれない。100人いたら、99人は自分のことを誤解している。自分を理解してもらえるなどと期待したら絶対に裏切られる。

自分を理解してほしいなどという期待を当然のことのように他人に要求するのは甘えである。

教師に子供のことを理解する能力はないし、義務もない。

教師に与えられた職務とは、教えることである。

教師は、分かりやすく効率的に教えることに専念すべきだ。

そして、家庭でやらなければならないしつけやら情操教育やらを学校が背負うな。

教師はあくまでも他人である。

経験から分かることだが、何年も腹を割って話し合った親しい友人や配偶者しか、自分のことを理解することは不可能だ。

自分の理解者を求めているならば、友人を作れ。

(2)
教師をしている友人が言っていたが、卒業文集にある生徒が先生への一言として、「もっとしっかりしてほしい」と記してあったという。「叱り方が一貫していない」と。

学校は、このような生意気な言葉を文集に載せてはならない。

教師をなめてもよいという基準ができるからだ。

学校は、教師を「不可侵」の領域に置くべきだ。

もちろん、神にせよとまでは言わないが、「ある種、神聖にして侵すべからず」のような地位を与えよ。

会社でもどこでも、上司に対する公然とした反抗を許せば、秩序は崩壊する。

上司がなめられることを会社が許せば、その部課は機能しなくなる。

だから厳正な処分をすべきだ。

もし上司に問題があるならば、さらに上位者に訴えるべきだ。

しかし、そのような場合でも、「重大な」問題についてだけだ。たとえば、会社の金を横領しているとか。

些細な問題について事を荒立てるべきではない。

(3)
クリスチャンの父兄は、教師に対して尊敬を払うべきだ。その品性のゆえにではなく、その職務のゆえに尊敬を払うべきだ。

立てられた秩序、自分の上位者は、すべてことごとく神の決定による。

だから、彼らに反抗すること、低く見ること、無視することは、神に対して行っているのと同じである。

もしその教師を認めたくないならば、その組織から出なさい。

子供をその学校から引き離しなさい。

組織にいながらその組織に反抗の姿勢を持つことは、神への反逆に等しい。

権威のヒエラルキーを無視することは、聖書の教えに反している。

 

 

2009年5月14日

 

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