御言葉を最高権威以外のものとして人に提示してはならない2


<K様>
 新着情報をありがとうございます。

 「御言葉を最高権威以外のものとして人に提示してはならない」を読んで。

 「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」箴言29章25節

 を思います。

 畏れる対象があいまいであると、信仰がブレる状態になる事を随分と経験しました。

 まさに、「御言葉を、「宣言」「最高権威」「法」以外として誰に対してでも提示してはならない。」

 と言うことでしょう。
力強い学びを感謝します。

<tomi>
私は、ずいぶん長いこと、「日本人の常識」というものに振り回されてきました。

日本人の典型的な考え方が正しいのではないか、と迷ったことがあり、その頃は、人への恐れが常にありました。

「社会がそう考えるんだから、社会に合わせていくしかない」という考えをそのまま信じようとしました。

しかし、それでは、恐れがますますひどくなりました。恐れると、恐れたことが起こります。

人々から馬鹿にされるようになり、ますます深みにはまっていく。

まさに、引用された「人を恐れると、わなに陥る」という御言葉を体験しました。

キリスト教の衰退は、19世紀末、進化論によって創造の記事に疑いが生じたことによって決定的になったと思います。

クリスチャンが御言葉を剣と考えなくなった。御言葉を相対化し、「聖書はそう言っているかもしれないけど、現実は違う」というような馬鹿にするような態度になった。

自然主義神学やバルト神学などはこういった御言葉に対する権威づけの失敗から生じた神学です。

御言葉に対する信仰のブレがあると、信仰生活全体が崩壊します。

土台を奪われるからです。

土台を奪われたクリスチャンは、サタンの餌食です。

うまい具合に調理され、騙され、滅亡にもっていかれる。

不安と恐怖の奴隷にされる。

私は、自分にとって一時期あのようにぶれる時期があったことがよい教訓になったと思っています。

今、本当にヴァン・ティルに立てたのは、聖書への徹底した信頼がない生活がいかに地獄か味わったからです。

 

 

2008年10月23日

 

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