無条件の寛容なんて幻想である


オウム以来、「宗教やっている人間はおかしい」というような評価が広まっている。

しかし、こう言っている人間は、自分も立派な宗教者であることに気付かない。

宗教儀式や特定の教典を信じていないことが非宗教者の条件であると誤解している。

儀式や教典があるから宗教なのではない。

宗教とは世界観である。儀式や教典はその一つの表現である。

宗教の本質は、世界をどのように見るのか、その解釈のあり方である。

仏教徒は動物を殺して食べることはよくないと考えるかもしれないが、キリスト教は動物は神によって食物として与えられたので食べることができると考える。無宗教の人々もこのことについて何らかの意見を持っている。

意見を持たないということはありえない。「食べることはよい」か「食べることは悪い」かどちらかしかない。「よいとも悪いともいえない」とたとえ回答したとしても、彼らは牛丼屋にいって肉食について何らかの決断をしている。

倫理的価値判断をしないで生活できる人は誰もいないのだから、みな科学的に無根拠に判断を下しているわけである。だから彼らは立派な宗教者なのである。

たしかに、特定宗教のように一定不変の公共的な教義を持たないで生きているかもしれないが、「無教義」で生きるということはできない。人間は宗教的でなくなることなど絶対にできない。

よく「宗教者は、他者に対して不寛容だからダメだ」という人がいるが、自分もそのように発言している時に、「他者に対して不寛容な宗教者」に対して不寛容になっていることに気付かない。

「異論のある人を切り捨てるな」と言いながら、自分で、異論のある人を切り捨てる人を切り捨てていることに気付かない。

ここ数年カナダでは同性愛者の権利を守るための法律が可決されており、将来、聖書は「反同性愛的文書」にされ、同性愛者を除名した教会の牧師が投獄される危険もあるという(PCANEWS.com Newsletter for 04/02/2004)。

つまり、「同性愛者を差別するな。不寛容をやめろ。さもないと投獄するぞ。」ということである。

「どこまでも寛容な社会」なんて幻想である。

どの社会でも宗教的に不寛容であり、誰でも宗教的に不寛容者である。

「宗教は不寛容、ヒューマニズムは寛容」なんて信じている人はまったくの無知蒙昧である。

20世紀にヒューマニズムが粛清した人の数を知っているだろうか。
1億人である。

無条件の寛容なんて幻想である。社会を成立させるにはどうしたって不寛容は避けられない。

 

 

2004年8月11日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp