考えすぎはサタンの罠である


精神を健全に保つ秘訣は、「考えない」ことだ。

現代人は、神を捨て、神に祈ることをやめた代わりに、心理学的カウンセリングに頼る。

そこでは、過去の自分を見つめたり、問題に意識を集中することが勧められる。

しかし、それは逆効果になりやすい。

サタンによる霊的な攻撃の中心には、「考えなくてもよいことを考えさせる」ということがあるからだ。

サタンは、問題を掘り下げろとささやく。

エデンの園において、サタンはエバに「その実を食べた後のことを考えてごらん。あなたはきっと賢くなり、神と同じようになるでしょう。」とささやいた。

実を食べてはならない、という命令があるのだから、食べた後のことなど考えるべきではないのだ。

エバは「余計なことを考えた」ために失敗した。

現代のリベラル神学は、「考えすぎ」の神学だ。

「聖書は本当に無誤無謬だろうか。」と考えた。

しかし、「聖書は無誤無謬である」は人間が「信じなければならない」ことであって、迷うべき対象ではないのだから、エバと同じように「考えすぎ」の誘惑にやられたのだ。

軍隊において、上官の命令に従うか従わないかを迷うことが許されないのと同じように、聖書を神の言葉として受け取ることは命令である。だから、それ以上のことについて考えるべきではない。

「聖書には間違いがある。だから、こうこうこうなる・・・」

こういった迷いは、自分の存在の基盤を失うことを意味する。

我々の唯一の基盤は御言葉である。

精神を安定させ、健全にしたいならば、疑わないことだ。

聖書の御言葉が示されたら、それで思考を止める。ああでもないこうでもないと迷うことを止める。

それ以上のことは神が「我々が眠っている間に」解決してくださる。

例えば、金の問題があるとする。明日どうやって生きていくか、心配だとする。

御言葉には「神はあなたがたを孤児にはしない。見捨てない」とある。

それで心配を止める。そして、できることから始める。例えば、仕事を探す。

心配で何もできなくなったり、精神的に病んでいる人の特徴は、考えなくてもよいことを考えることである。

つまり、サタンの「心配の罠」にはまっているのである。

御言葉を聞いたら、それを最終結論とすべきだ。

 

 

2008年4月19日

 

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