なぜ聖書なのか?2


<R様>
> なるほど。どんな思想も宗教も科学も循環論証であり前提なしには語れない。ことがわかった。
>
> 聖書は、「聖書啓示を前提とせよ」と命令しています。
> 科学は、「人間は認識できるということを前提とせよ」と命令します。
>
> しかし、どっちの前提が正しいのかを証明することはできないですよね?
> また、私が今このように言った事も、論理的に証明できることが絶対に正しいというように論理を権威として前提ずけているわけです。
> このように人間には何を正しいか正しくないのかを判別する前提を選ぶ必要があるわけです。しかし、どれが正しいのかを知ることはできないのですよね。このようなときはどのようにして聖書を正しい前提として定義できるのでしょうか?それはもちろんできないですよね。なぜなら聖書を正しい前提ずけなのか違うのかを調べるのに、また物事の正しい 正しくないを決める前提が必要になるのですから。このようにして永遠に続きます。
>
> ということは前提というのは各個人の自由ですよね。人間の論理を前提にするのか、聖書の啓示から前提にするのか、
> 結局は信仰になるのでしょうか?このようにいろいろ議論していると人間には何が正しい前提ずけなのか知りうることは不可能ではないでしょうか?
> つまり不可知論者になるしかないのでしょうか?

<tomi>
不可知論にはなりません。
正しい前提づけというものは可能です。
なぜならば、人間は被造物であり、神の命令の下にいるからです。

人間は神の臣下以外のものになることは不可能です。
「いや、それはあなたが神を信じているからそういうのであって、私は信じないから関係ない」と答えるかもしれません。

それは、(私という人間から見て)その人の自由です。しかし、(神という主権者から見て)その人の自由ではありません。
神は自然という動かしがたい証拠を目の前につきつけているのですから、言い逃れできません。

私という人間でしかないものは、誰に対しても「信じなさい」とは言いません。権利も権威もないからです。

しかし、創造者である神は、被造物に対して絶対的権威と権利を持つので、「信じなさい」と命令できます。

ですから、人間的な意味において、我々は自由人です。
どの前提を選んでもいい。

しかし、神的な意味において、我々は神の支配領域から出ることはできない。

どこに行っても神からの評価が下り、必ず賞罰が伴う。自分がやった行動には、必ず結果が伴う。

我々は被造物であり、神が作られた法秩序の中に不可避的に生きているからです。

もう一つ、実質的に、不可知論ではありません。

なぜならば、聖書の神を前提としなければ、実質的に人間は論理矛盾をきたすからです。

たとえば、進化論的世界観を徹底して適用するとします。

弱肉強食、適者生存の原理を適用するならば、社会的弱者は抹殺すべきということになります。

社会的不正があっても、強者の場合見逃し、弱者の場合処罰すべきということになります。

力の強い変態の大人が力の弱い女性に痴漢を働いても、弱肉強食だから自然の理にしたがっただけということになります。

進化論的世界観は、欠陥世界観であり、社会に倫理を適用できません。

また、計画を立てることを意義付けられません。

偶然に誕生した(と進化論世界観は主張する)この世界において、計画は異物です。

偶然こそが究極の世界において、人生は完全に無意味であり、個人や組織などが目的を立てて向上することにいかなる意味もない、自然の理に反するということになります。

つきつめて行くと、聖書的世界観以外では、社会も個人生活も秩序立てることは絶対に不可能です。

現代人が信じている進化論的世界観は、都合の悪い部分だけ聖書的世界観を採用している弥縫策でしかありません。

普段は「世界は進化によって創造者の手によらずに自律的に成立した」という前提を持ちながら、社会的不正が起きると、「社会倫理にもとる」と非難します。ヒトラーによるユダヤ人虐殺を非難します。

「人間から出発し、人間に帰るヒューマニズム世界観」では、我々は生活を徹底させることができないのです。

だから、ヒューマニズムは自分をごまかし、騙す以外には道はない。

つきつめて考えると論理破綻するから、考えない、ということになる。


> また人間は真理を信じるか信じないかということは、真理を素直に受け入れるか受け入れないによるとかいてありました。
> ではイスラム教もおなじことを言っています。キリスト教も同じことをいっています。この場合どのようにしてキリスト教が正しいと前提づけることができるのでしょうか?やっぱりキリスト教が正しいと「思ったから」ということしかできないのでしょうか?

これも前と同じことです。ヒューマニズムを含めて、すべての世界観や宗教は、「循環論の体系」なのです。

問題は、循環論か非循環論か、ではなく、「どの循環論を受け入れるか」の違いでしかありません。

その場合、人間的に見れば選ぶのは自由ということになります。(ただし既述のとおり、首尾一貫性において著しい欠陥がある循環論を疑うべきですが)

しかし、神の目から見ると、万人は聖書的循環論を選ば「なければならない」のです。

私たちは、「中立」という名の会社のショップにいて、どの商品を選択するか迷っている中立のバイヤーではありません。

私たちは、「聖書の神の店」という会社のショップにいるその会社から給料をもらっている店員であり、同業他社の商品を選ぶことは禁止されており、しかもその会社の製品だけが唯一まともな商品であり、同業他社がすべて粗悪品であるという状況なのです。

 

 

2009年3月10日

 

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