Sさんの教会は再建主義の代表ではない3


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【おことわり】
今気付いたのですが、「Sさんの教会は再建主義の代表ではない2」の中で、

「のんびりしてたら、あなたもあなたの家族も、子孫もみんな地獄の家系になってしまうかもしれませんよ。」

において、「あなた」とは英語のyouの「一般人」を指す用法と同じ意味で使いました。「われわれ」でも同じ意味です。
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昔の土地もちは相続税で土地をもっていかれて、国家の財産になり、国家はそれを売り出してお金に代えたりしている。

近所に昔大地主だった酒屋がある。その酒屋の前の土地は相続税で国のものになり、国有地の看板がでていた。最近、そこに民家が建設されているが、酒屋はそれを見てどう思うのだろう。自分の土地だったものの上に家が建てられている。

国の税制は、戦後の土地改革の永続化を目指して作られたのかもしれない。

ソ連が1世紀ももたなかったことからも分かるが、個人の所有権を犯す政治が長続きするわけがないのだ。

これは、「人間は労働に対して報酬を求める」という当然の心理が無視されているからだ。

犬をしつけるときに、芸をしたらご褒美をやらないと覚えない。

それと同じように、人間は自分のやった仕事に対して代償がなければやる気を失う。

仕事をしていていつも思うのだが、どの会社の社長でも、組織の長でも、「互恵精神」というものがない人間は人の上に立てない。最後に失敗する。

自分ばかり儲かればいいと考える人間は、結局組織をつぶす。なぜなら、人が離れるから。

義務ばかり要求して、相手に利益を与えなければ人が離れていくのは当然ではないか?

私がアルバイトしていた予備校は、報酬が最も高いので有名だった。最低でもコマ給は1万円もらえた(1コマ90分)。だから、業界で人気があると評判の教師がどんどん集まった。

金銭的な報酬を与えずに人をつなぎとめておきたいならば、よほどのカリスマ性がなければならない。

だから、この世において最も頭がよくなければなれない職種は、新興宗教の教祖だと聞いたことがある。

金を貢がせて、なお人が集まってくる組織を作れるのは天才に違いない。

だから、普通の才能しかない人間は、義務だけで人をつなぎとめようなんてあさましいことを考えてはならない。

しかし、人間はある程度成功すると、報酬ではなく、義務で人をつなぎとめておけると考える悪い習性がある。

大物と小物の違いは、ここではっきりと現われる。

中程度まで会社を大きくできる企業家はたくさんいるが、大企業に成長させられる人間はほとんどいない。

「人間は報酬がなければ離れる」という原理にどこまでも忠実でなければ、「仲良しグループ」以上のものは作れない。

クリスチャンの間に誤解がはびこっているが、人間が報酬を求めることは罪ではない。

神は人間を「労働に対して報酬を求めるもの」としてお造りになった。

労働者への報いに関する記述が聖書には多い。

「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(マタイ25・21)

報酬を求めることを恥じるべきだという教えはキリスト教にはない。

金を愛しているパリサイ人に対してイエスが非難されたときでも、「報酬そのもの」を否定されたわけではない。

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」(マタイ6・1)

報酬は常に「天におられるあなたがたの父」に求めなさい、と言われているのだ。「報酬を期待せずに仕事をしなさい」などどこにおいても述べられていない。

しかし、これはあくまでも自分と神との関係においてだけである。

この姿勢を他人に要求して組織など作れない。自分が「神から報酬を受け取れればいい」と考えることはできても、他人に対して「神からの報酬で満足しなさい」ということはできない。

私がこれまで体験した多くの組織がせいぜい中規模どまりだったのは、この点を誤解したからだ。会社の社長でも、教会の牧師でも、仲良しグループの中で通用するやり方を最後まで捨てられなかった。

いつまでたっても親戚とかシンパしか集まらない集団の原因はトップの未熟な考え方にある。

個人の魅力とか、教えの魅力だけでやっていこうなんて無理だ。

自分の影響力を拡大させたいならば、「人間は正当な報酬を求める」という心理にどこまでも忠実でなければならない。

報酬にはいろいろな形があるだろう。必ずしも金銭とは限らない。とくに金銭的な報酬を十分に与えられない教会のような組織では、それに代わるもの「やりがい」を与えなければならない。

その場合、仲良しグループで通用した「親心」はかえって邪魔になる。社会的な集団を家族の延長と考えている組織は家族規模以上のものになれない。

信徒を子供扱いし、過剰な保護の手ばかり差し伸べているような教会は絶対に大きくならない。信徒に思い切って責任を与えることのできない小心な牧師は、教会運営を組織化の能力のある長老に早期に委譲することだ。

そして、信賞必罰のしっかりした公平な評価制度をつくり、良識のある信徒なら誰でも納得するような人事を行うことだ。

そうしなければ、自分の個性を超えた様々な才能を飼い殺しにすることになる。これは牧師として大きな失敗である。牧師の主な使命の一つは、信徒の潜在能力を引き出して、それを十分に組織の中で発揮させることにあるのだから。

牧師にとって大敵は「恐れ」である。人に仕事を任せられない小心さである。自分が小心なら、太っ腹な長老に組織の責任を委ねて、自分は教えの分野に集中すればいいのだ。

教会において守るべき、どうしても譲れないものは、「健全な教え」と「倫理」である。聖書から逸脱した教えや行動については厳格に対処しなければならない。これは「一」である。

しかし、この譲れない原理原則を守っていれば、後はできるだけ自由にし、権力を分散すべきだ。多様な個性を多様な領域において発揮させることを目指すべきだ。

日本の多くの教会はこの「一と多」の区別がしっかりできていない。そのため、全体主義か放縦かのいずれかに偏って、健全な組織づくりができないのである。

キリスト教思想が社会に浸透していないものだから、牧師も信徒も、締めるべきところで締めないで、締めなくてもいいところで締めている。

いつまでたっても仲良しグループで留まり、個性的な人間が外に出て行った責任をその人間に負わせるのはもう止めるべきだ。

 

 

2004年6月27日

 

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