ワンネス神学と正統的三位一体論の違い4


>やはりワンネスの判定は難しいのですね。

いえ、どうしてでしょうか。ワンネスは、サベリウス主義の変形であり、父・御霊は御子の化身であるとする説です。見分けは簡単です。

>ローカルチャーチの信徒は次のように主張して、リーはカルケドン信条に
>従っており、自分たちはワンネスではないと言っております。さらに批判す
>る者を三神論者と訴えているくらいです。このような人々にはどのように対
>応すべきでしょうか?

以下はカルケドン信条です。


聖父たちに従って、我々は心を一つにし、万人に向かって「唯一の御子、我々の主イエス・キリストを告白しなさい」と教える。

このお方は、神性においても、人性においても完全である。このお方は真の神であると同時に、真の人間でもあって、理性的な魂(つまり、人間の心)と体をお持ちである。

彼は、神性に関しては、神と同じく真であり、人間性に関して我々と同じように真である。罪を除き、あらゆる点において我々と同じである。

時間が始まる前に、彼は神性という点で、御父から生まれ、今、この「終わりの日々」に、我々のために、また、我々を救うために、人間性という点で神をみごもった処女マリアからお生まれになった。

我々はこの唯一のキリスト、ひとり子、主が二性を持っておられると理解する。またこの理解に際して、我々は、この二性の一方を他方に変えたり、それらを2つの別個のカテゴリーに分けたり、領域または機能にしたがって両者を対比したりしない。

合一したからといって、それぞれの性質の特徴が消されてしまったわけではない。むしろ、それぞれの性質の「特質」は保持され、両性質は一人の「人格」と一つの現実(本質)の中に同時に現れる。

それらは、2人の人格に別れたり、切り分けられることはなく、どちらもともに唯一の神のひとり子「ことば(=ロゴス)」、主イエス・キリストである。

以上のことを、昔の預言者たちは証言し、主イエス・キリストご自身は我々に教え、教父の象徴(ニケア信条)は我々に伝えている。

カルケドン信条はキリストの二性一人格を主張しているのであって、三位一体論を展開していません。

ウィットネスリーの人々は、御子が父・聖霊に化身するとするワンネスではなく、父が子・聖霊に化身するという考え方ではないでしょうか。

とにかく、存在論的に御子が御霊になって我々に内住されるなんてことは不可能です。

御子は、「まことの神であり、まことの人である」わけですから、霊になれば、人性を捨てたことになります。カルケドン信条を見てください。

御子は、「真の人間でもあって、理性的な魂(つまり、人間の心)と体をお持ちである」わけです。肉体を持たなければならない。今でも。彼は天において肉体において生活しておられる。もし霊だけになれば、我々とは別の存在になってしまう。

キリストは我々クリスチャンと同じように、肉体を持ち、その中に聖霊が内住されている。

それでこそ、我々人間の頭となれる。我々は、神と契約を結び、その契約を肉体において成就されたキリストについているのです。だから、我々は、神の目から見て、「契約遵守者」である。たとえ我々が罪を犯しても、我々の頭がキリストであり、彼が契約を成就して、すべての支払いを済ませてくださっているのだから、心配する必要はない。

しかし、もし彼が我々と異なる存在、たとえば、天使のように霊でしかない存在に今いらっしゃるのであれば、彼は我々の代表ではなく、契約の主でもなく、我々は、契約の主を欠いた存在になり、我々が罪を犯すときに、その罪はもろに我々の頭上に刑罰という形で返ってくる。

彼らの間違いは、「父と子と聖霊が別々に同時に存在する3つの人格であり、それらが別のものに変化したり、混同することはない」ということを信じることができないという点にあります。

 

 

2006年4月4日

 

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