ディスペンセーショナリズムの律法廃棄論には注意しよう


ディスペンセーショナリズムが教会に及ぼした最悪の影響の一つは、律法の廃棄である。

最近、婚約したクリスチャンのカップルに対して結婚前に同居することを許可する牧師の話しや、性欲に苦しむ相談者に対して風俗に行って欲望を解消しなさいと教える牧師の話し等をよく聞く。

これは明らかに律法廃棄というディスペンセーショナリズムの異端的教えによって教会が荒らされていることの証拠である。

ディスペンセーショナリストの教えに反して、聖書は、「律法を捨てる者は救いから漏れる」と教えている。

「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」(1コリント6・9-10)

クリスチャンでありながら、これらの罪を犯している人間は絶対に天国に行けない。

ディスペンセーショナリズムが流行らせた「無条件の救い」というのはサタンの嘘である。

1コリント6・9-10から、どうやって「人間は無条件に救われる」という教えを引き出すことができるだろうか。

「正しくない者」は「神の国を相続できない」のである。

救われたのに、罪のゆえに滅びるクリスチャンの型は、ロトの妻である。

ロトと家族は、神のあわれみによって救われた。

しかし、ロトの妻は昔の生活に未練があり、滅びの町ソドムを振り向いて見たために塩の柱になった。

誤解してはならないのは、地上を歩むクリスチャンは「未完の器」なのである。

パウロは信者に対して「救いを達成するよう」励ましている。

「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。」(ピリピ2・12)

クリスチャンは、自分の救いを完成させるために、「恐れおのの」かねばならない。

「もう救われているのだから、何をやっても裁かれない」という「のん気」さは、本当に救われる人の特徴ではない。

友人のクリスチャンカウンセラーが、彼の知人に関する実話を教えてくれた。

その人は、教会内の既婚者と不倫をしていた。

彼はきわめて尊大な人間であり、神も人もなめているのが態度に表れていた。

彼の最後はどうなっただろうか。

その相手との行為の最中に腹上死したのである。

神をなめるとこうなるのだ。

「今は恵みの時代だから、律法は関係ない。」と叫ぶ偽預言者には十分に注意しよう。

今、キリスト教のトップに立っている彼らは、平気で律法を無視することを教えている。

彼らに従うことによって、地獄の炎の中に投げ込まれないように注意しよう。

 

 

2005年9月23日

 

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