新改訳聖書が全面改訂


新改訳聖書が全面改訂されるらしい。

http://jpnews.org/pc/modules/xfsection/article.php?page=1&articleid=1885

内田先生は、東大でギリシャ語やられた方で、旧約の木内先生は、大学の先輩でアラビア語科を出て、聖書研究会で一緒でした。津村先生は、筑波大学の教授していた学者で、一度礼拝メッセージを伺ったことがあります。

3人とも福音派です。

「(2)特定の神学的立場を反映する訳出を避け、言語的な妥当性を尊重する委員会訳」

これは、いただけません。

特定の神学的立場を反映しないとろくな翻訳はできません。

そもそも予定論において決定的な違いがあるカルヴァン派とアルミニウス派が共同で聖書翻訳しましょうなんて試みが間違っている。

それから終末論についても、共同で訳するとなると、プレ・ミレの人々に配慮することになるから、「これから終末が来ます」的な訳になるでしょう。

実際、内田先生のグループ(福音自由)は、ゴリゴリのプレ・ミレです。プレ・ミレでなければ教職に就けない。

となれば、どうしても、次に出てくる翻訳も、プレ・ミレ的になるでしょう。「神学的に中立」なんて絶対にありえない。

私は、カルヴァン派はカルヴァン派として神学的純粋性を徹底して追求して、その上で神学的立場を鮮明に出して翻訳しないと神に対しても人に対しても責任を果たしたことにはならないと思います。

はっきり言ってしまうと、アルミニウス主義は、異端なんですから(ドルトレヒト会議)。メソジストやホーリネスのラインといっしょにやるなんてことを考えている時点でだめ。

こんな10万人にも満たない福音派クリスチャン人口でみんなの顔を立てることにエネルギー注いでいるって馬鹿げています。

それから津村氏が委員長であるために起こる問題もあると思います。オリエントの歴史、考古学関係の専門家ですから、学問的アプローチという視点が入ってくるのはよいのですが、学問の世界って、「まず経験ありき」ですから。

近代のキリスト教の弱体化は、発掘されたものを土台として構築される科学の世界が、「まず御言葉ありき」の信仰の世界を侵犯したために起こった。

「経験は聖書啓示を絶対に超えてはならない」というヴァン・ティルの大原則をよほどしっかりと持たないと、再びクリスチャンの信仰を動揺させる要素が入ってくる恐れがあります。

プレ・ミレやア・ミレは、一言で言えば「クリスチャンがこの世界で何をやろうと、世界が変わることはない。あきらめろ。ただ教会で祈っていればいいのだ。世俗の分野に信仰を持ち込むな」という逃避主義です。

現実逃避しても何も解決はありません。現実の問題は真正面から取り組まねばならない。

「イエスは天地における最高権威である」と聖書にあるのですから、私たちクリスチャンは、現実の問題を解決できる。必ず解決できる。

現実と向き合うということは、自分の欠点や弱点を素直に認め現実を見つめるという土台が必要です。

その現実を受け入れるという段階が抜け落ちることが、精神障害の大きな問題なのです。つまり、アダムが「私が悪いのではなく、あなたが私に与えたこの女が・・・」という責任転嫁こそが人類共通の基本的な問題であり、これを貫いて生きていくと精神的におかしくなる。

現実と向き合って、そこで正しい解決法を選択し、実行する以外に問題は解決しない。

人間の基本的な行動パターンは、


1.現実を見ない、
2.正しい解決法を選択しない、
3.問題を先延ばしにする

ということです。

福音派や聖霊派が教えているプレ・ミレやア・ミレは、実はこのような現実逃避を教えており、「再臨のキリスト」とは、逃避した現実を自分に代わって取り組んでくれる都合のよい「空想の救世主」なのです。だから私はこの立場をウルトラマン信仰と呼んでいます。

基本的にディスペンセーショナリズム福音派や聖霊派の信仰とは、「ずるい」信仰です。「逃げ」が基本ですから。神が「地を従えよ」と言われたのに、「それはできません。再臨のキリストが私たちの代わりにやってくれます」と言う。

だから、福音派のクリスチャンから政治家がでない。というか、政治家になるための基礎、つまり、現実問題をどのように解決したらよいかということを真剣に探っている人がいない。

逃避的信仰なので、建設的・現実的な大人が寄り付かない集団になってしまったというのが現状です。

 

 

2010年5月2日

 

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