存在論的に多、契約的に一 9


<Perter様>

この中で「意味不明」とあります部分は、彼らの教会観において、「地方合一の立場」という部分かと推察いたします。彼らはキリストの体である教会が地上に現れるとき、各行政区に教会は実行的にひとつだけと考えるわけです。聖書の「コリントに在る教会」などをそのままとって、自分たちを、例えば東京であれば、「東京に在る教会」と称するわけです。それ以外の名称をもつ教会は、分裂の教会として断罪します。ですからすでに東京にはリー教会がありますので、東京において実行的に教会生活を営もうとすれば、彼らにジョイントするしか聖書的な実行はできなくなります。このゆえに彼らは米国では"The Local Church"と定冠詞を付して呼ばれているようです。つまり現一般教会が喪失している真理の回復はローカルチャーチにおいてのみなし得る、現代の神の御心に従ったクリスチャンの教えと実行とはローカルチャーチにのみあると言うわけです。その意味で現代の唯一の預言者がウイットネス・リーであり、彼の教えに従うことが即神に従うことになるわけです。在主

<tomi>

つまり、「聖書にはコリントの教会とか、エペソの教会とか、行政区に1つの教会が記されているから、我々もそれにならって、各行政区に1つの教会しか認めないようにしよう。」ということでしょうか?

そして、「東京には我々の教会があるのだから、それ以外はみな分裂の教会だ」と。

聖書は、行政区に1つの教会しか認めないなどというおきてをどこにおいても主張しておりません。

いや、むしろ、「2人または3人が私の名において集まるところに私もいるのです。」と言われて、どんなに小さな集まりであっても、キリストを中心として集う集いにはキリストの臨在と権威があると述べています。

ですから、我々はこの御言葉にしたがって、東京の中にいくつ教会を建ててもよいのです。

こういった人間的な権威に過重な強調を置くのは、傲慢の霊のなせるわざであり、つまり、それはサタンの発案なのです。

この傾向は、過重に教会の権威を主張する正統主義のある人々にも見られる非常に悪い傾向です。

「私たちのところから出た人間は、私たちの認可を得ない限り、伝道することを許さない」なんて言う人は一度、聖書をよくよんで見る必要があります。

ある人が召しを覚えて伝道などしたいという場合、人間的な目から見れば無駄なことやばかげたことに見える場合があります。

なぜならば人間は有限の存在であり、本当に大切なものを理解できない場合があるからです。

だから、伝道の究極的権威を人間に置くというようなことはできません。

たとえば、ある人は、主の導きを受けて、「漫才で伝道しよう。」というかもしれません。実際にクリスチャンの漫才師がいます。

それを見た保守的な牧師がそれを否定し、「馬鹿なことはやめなさい。私はそんな伝道許しません。」といって、彼のやる気をそぐならば、それは、悪意はないにしろ、神の国の妨害となり、とんでもない罪を犯すことになる。

だから、我々は常に、自分は視野が狭い。それは神から出ているかもしれない、と謙虚に考える必要がある。

「改革派の神学ではそうじゃないから。」

神学は霊感されていないんです。

神学は常に改革されなければならない。

だから、改革派の神学を持ち出して、他人の伝道を思いとどまらせようとし、他人にうわさを流すSさん。

そんな無駄なことする時間があるなら、自分で外に出てビラの一枚でも配ったほうがいいですよ。

 

 

2006年4月14日

 

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