ヴァン・ティルとその批判者たち


ヴァン・ティルは、神の啓示である聖書を絶対的前提とし、そこから考えを出発させるべきだと説いた。これを前提主義というが、様々な神学者がこれに反対した。

エドワード・J・カーネルは、次のように述べた。


仮説を立てる競争において、勝利のトロフィーは、現実世界全体をもっともうまく説明する仮説を編み出すことができる人に与えられる。・・・啓示をここに差し出しなさい! それらを矛盾律や歴史的事実と調和させなさい。そうすれば、啓示は、理性的な人間に評価されるだろう。(Edward J. Carnell, Introduction to Christian Apologetics, 94, 178.)
信じるためには、まず知らなければならない。(Edward J. Carnell, Philosophy of the Christian Religion, 515; cf. p. 260.)

つまり、聖書啓示であっても、人間の審判を免れない、ということである。

福音派において人気があり、ヴァン・ティルやラッシュドゥーニーから大きな影響を受けたフランシス・シェーファーですら、前提主義に反対し、人間理性至上主義を主張した。

同様に、フランシス・シェーファーも「前提」を、競合する他の仮説とともに観察的経験――明らかに、シェーファーは、この経験を中立と考えており、また、キリスト教世界観に頼らず、理性によってのみ認識できるものと考えていた――の基準によって試されるべき仮説の一つに過ぎないと考えた。

「私がみなさんにお勧めするのは、その2つの偉大なる前提について考え、・・・どちらが事実と合致しているか検討するということである。・・・それは、我々が、自分の周りに広がる世界を見渡して、これらのいずれが事実と実際的にも経験論的にも合致しているか、という問題なのだ。」(He is There and He is Not Silent [Wheaton Ill.: Tyndale House, 1972], 65, 66; cf. p. 81)

シェーファーは、宗教的証明は、科学的証明と「同じ規則」にしたがって行われるべきだと述べた。(The God Who Is There [Chicago: Inter-Varsity Press, 1968], 109-11)。

(Greg Bahnsen, Van Til’s Apologetic; Reading and Analysis, (Phillipsburg: P&R, 1998), pp. 16-17n.)

神学者ゴードン・クラークも同様なことを述べた。

クラークの認識論によれば、まず聖書は「論理的一貫性に関するテストに合格すべき仮説」の一つとして扱われる必要がある。・・・

「聖書の論理的一貫性を示すことは、霊感を弁証するための最善の方法である、と私は信じる。」(”How May I Know the Bible Is Inspired?” in Can I Trust My Bible? [Chicago: Moody Press, 1963], 23)

しかし、クラークは後に、知識が感覚による観察を通じて引き出されるという立場――これは、聖書から知識を得る際ですら自分の感覚を用いなければならないとするので、容易に懐疑論に陥る――を完全に否定するようになった。後期のクラークは、前提主義者と呼ばれることも時々あり、実際にキリスト教を・・・証明不能な信仰主義的第一原理として扱った。・・・これらの合理主義者としての発言と、信仰主義者としての発言のいずれにおいても、クラークが聖書を最高(自己証明的)権威として・・・十分に扱うことはなかった。(Greg Bahnsen, Van Til’s Apologetic; Reading and Analysis, (Phillipsburg: P&R, 1998), pp. 17n.)

ヘルマン・ドーイウェールトも同様にヴァン・ティルの前提主義を拒否した。

ドーイウェールトは、ヴァン・ティルのことを、「哲学思想は、神の啓示という超自然的真理から『導き出され』なければならない」と主張する極端な「合理主義[者]」と非難した。(Herman Dooyeweerd, “Cornelius Van Til and the Transcendental Critique of Theoretical Thought,” in Jerusalem and Athens, ed. Geehan, p.81)
・・・

ヴァン・ティルは常々、ドーイウェールトによる世俗の思想体系に対する批判(とくに、それが自律的であると主張する点に関する批判)を高く評価していたが、彼の思想には危険な欠陥があるとも述べていた。なぜならば、ドーイウェールトは、キリスト教哲学を、聖書自体の明確な教えとは無関係に・・・築き上げようとしていたからである。(Greg Bahnsen, Van Til’s Apologetic; Reading and Analysis, (Phillipsburg: P&R, 1998), pp. 19n.)

ヴァン・ティルは答えて言った。

「ドーイウェールト博士。ご承知のとおり、私はキリスト教弁証論に関して、あなたが同意なさらないと思われる2つの見解を奉じております。 まず私は、キリスト教弁証論、そして特に改革主義弁証論は、ノンクリスチャンとの対話を始める前にまず次のように宣言すべきであり、そうしない限り、真の『Transcendentalな[訳注:知識を得る上で必要な一般条件を探る]』方法とは言えないと考えます。すなわち、『キリスト教の見解[訳注:聖書啓示]を、・・・あらゆる分野における人間の判断・命題において、賓辞(predication:訳注・主語について何事かを述べる語)の基礎として受け入れなければならない』と。」(Jerusalem and Athens, p.98)

以上ごらんのとおり、福音的なキリスト教を主導してきた超一流の学者ですら、真の意味において聖書を神の御言葉、絶対権威としてこなかったのである。

神学者がこれだから、一般の牧師やクリスチャンが聖書を自分の思考・判断の前提として据えるということができなかったのも当然である。

我々は、今、神からコーネリアス・ヴァン・ティルという歴史上類を見ない偉大な神学者を与えられた。

我々は、彼の前提主義を通過しない神学理論・世俗理論をすべて拒否すべきである。つまり、「聖書を疑わず、そこから出発する」ということを第一の認識論的原理として持ち、聖書に反する思想をすべて、ことごとく、徹底的に排除すべきである。

もしこれを怠るならば、ヴァン・ティルを与えられたという重い責任を果たすことはできない。

「多く与えられた人は、多く要求される。」

 

 

2006年4月6日

 

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