中途半端に信じることの恐ろしさ



イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。(マタイ13・3-8)

いやぁ、驚いた。

つい1週間前まで電話で話していた10年来の友人が突然、変なことを言い出した。

それまでやってきたことを全部否定するようなことを。

人間は、変わる。

だから信用できない。

自分が信仰を持ち続けることができるのはただ主の恵みだけだ。

我々は、誰にも何も期待できない。

いくつか関門がある。

つまづきが起こる。

ちょっとしたものかもしれない。

それはふるいだ。

本当にそれを信じているのか?

自分がとった立場が本当に確かなのか。

それを試される。

必ず試される。

この箇所では、イエスは、試練を3つ挙げられた。
(1)鳥
(2)日
(3)いばら

他の箇所でイエスご自身が解説をしておられる。

(1)鳥がきてすぐに食べる。
これは、福音を示されても、最初から興味がない関心がない人だ。いわゆる俗物。霊的感受性がまったくない。

(2)日が照りつける。
深く根が張っていないから、日照りですぐにしおれてしまう。
これは、迫害だ。
いろんな意味で信仰者には反対がある。
家族、友人、職場などからの反対にすぐに負けてしまうのは、根が張っていないからだ。
深く掘り下げて理解するということをしないで、感覚的に信仰に入るとこうなる。

(3)いばら
これは、この世の誘惑だ。
昔の腐れ縁を切れない。
物欲や色欲、金銭欲、名誉欲、出世欲。
いろんな欲望に負けて、神よりも世俗を愛する。
信仰が邪魔になる。
「ええい!捨ててしまえ!」と。

だいたいこの3つでふるわれて、ついには元の木阿弥。

しかし、古巣に帰ることは恐ろしいことだ。

なぜならば、もっと悪くなるから。

以前よりも悪くなる。

私の友人の客は、彼から自動車を借りて返さないで乗り回していた。

やっとつかまえると、しおらしくして、悔い改めます、教会に行きますと言った。

本当に教会に行き、洗礼を受けてクリスチャンになった。

しかし、彼の弱点は金銭欲だった。

金でつまづいて、以前の生活に戻った。

するとどうだろうか。

以前より悪くなった。

一時はクリスチャンになってまじめになったと言う言葉を信じた、離婚した奥さんも、彼を受け入れた。

しかし、その後もとの古巣に帰って、よけいにひどくなったので、彼の息子はお母さんにこう言った。

「お父さんの言葉を信じて受け入れたのが、最大の失敗だったんだよ。」と。

住所を教えたので、縁を切ることが難しくなった。

クリスチャンになって悪霊を追い出すと、空っぽになる。

そこを聖霊で満たされていないと、さらに悪い悪霊が7つの悪霊を連れて戻ってくる。

汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。
そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。
そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。(マタイ12・43-45)

その後、彼はあくどい商売をやっていろんな人に迷惑をかけてきたが、ついに仲間も次々亡くなり、一人ぼっちになってしまった。

もちろん不義理をかましまくったので、誰にも信用されない。

中途半端に信仰するとこういうことになる。

我々は、弱い。

「百倍、六十倍、三十倍の実を結」べるまで耐え忍ぶことができるよう主に祈り求めるべきだろう。

 

 

2009年11月16日

 

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