イスラム過激派はアメリカの猟犬である


Jared Israelはhttp://emperors-clothes.com/interviews/brz.htm#picにおいて、興味深いことを述べている。

AP通信によれば、ブレジンスキーの部下であったザルメイ・カリルザドは「アフガニスタン問題に関する元国務省担当補佐官」であった。1985年、ソ連タス通信によれば、カリルザドは、国務省からの重要な知らせをムジャヒディンたちに伝えた。

その知らせとは、「国務省は、ある条件を満たせば、ムジャヒディンへの援助を継続する」というものだった。その条件とは、

(a)アフガニスタンの支配を確実なものにする。(b)カブール政府に対して妥協のない姿勢を取り続ける、であった。

( To Support Afghan Counter Revolutionaries New York; The Russian Information Agency ITAR-TASS, May 6, 1988, Friday )

つまり、アメリカは、ムジャヒディンに対して「平和を作るな」と命令したのである。

アメリカとムジャヒディンの関係はアフガニスタンで始まり、それは、90年代にボスニア紛争に影響を及ぼした。

ドイツの諜報機関の報告によれば、1990年代のはじめに、ペンタゴンの諜報局は、サウジやイランの人々と協力して、武器とムジャヒディンテロリスト――つまり、「アフガニスタンのアラブ人たち」――をボスニアに送り込み、ボスニア・セルビア人と闘わせた。ムジャヒディンは、アリジャ・イゼトベゴヴィッチのムスリム過激派を教育し、指導した。

アフガニスタンの親ソ政権と闘っていたテロリストたちが、ボスニアに送り込まれて、セルビア人との戦いに参加した。

メディアは、「ボスニアのセルビア人は、当地のムスリムたちを虐殺している」とデマを流したが、実際には、セルビア人は、ムジャヒディンの攻撃から自分の社会を守り、穏健なムスリムたちと連帯しようととしていただけなのだ。

http://emperors-clothes.com/interviews/brz.htm#pic

この写真は、1995年12月11日にロンドンタイムズに掲載された。見出しは「1万人のボスニア軍ムスリム部隊の一つがゼニカを行進した」であった。タイムズによれば、これらの1万人の部隊は、ボスニア軍ムスリム部隊の「一つ」にすぎない・・・。

1990年代に、このような写真が西側のメディアに載ることはほとんど皆無だった。メディアが、「ボスニア政府」は穏健で多文化的であるなどと伝えていたからだ。

これらの部隊が着ている白いコスチュームは、中東ムジャヒディンのユニフォームであって、ユーゴスラビアのムスリムの格好ではない。ボスニアのムスリムたちがこのような格好をしているのは、ペンタゴンの諜報部による仲介によってイランやサウジなどの過激派の国々から送り込まれた過激派ムスリムに影響されていることを示している。

ボスニア内紛の初期(1993年1月まで)において、ブレジンスキーの手下ザルメイ・カリルザドは、ペンタゴンで戦略計画の責任者だった。

(ブレジンスキーが誇らしげに述べたように)アフガニスタンとボスニアにおいて、合衆国は公式の場において非難していたムスリムテロリストを支援していた。一般の人々がこのような政策を支持するはずもないから、これは、アフガニスタンにおいては自由の戦士を助けるという名目で、ボスニアにおいては虐待されているムスリムを保護するという名目で行われていた。

1980年代後半までに、ザルメイ・カリルザドは、アフガン戦争の最高戦略立案者になった。

父ブッシュ政権のもとで、カリルザドはペンタゴンの戦略責任者だった。証拠によれば、アメリカがボスニアのムジャヒディンを助けるようになったのは、ブッシュの時であって、クリントンの時ではなかった。

アフガニスタンとボスニアのどちらの場合でも、このブレジンスキーの手下は、ムスリム過激派を国家転覆の武器として利用してきた。メディアはこの戦いの性質――つまり、ブレジンスキードクトリンの実行――を誤解していた。

 

 

2004年9月27日

 

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