日本に関する仮説13


日本が極東に位置しているということに何らかの意味があると多くの人が考えてきた。

私は、古代の人々がカバラの「生命の樹」に基づいて、東進することを至高世界に向かうことと考えていたと推測している。

なぜならば、生命の樹は至高世界、中高世界、下層世界の3つに分かれており、太陽が昇る東をその至高世界に、夕暮れと夜を象徴する西を下層世界に当てはめたと考えても無理はないからである。

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奈良にある有名な酒船石に描かれている図は生命の樹であり、その至高世界をあらわす部分は東に置かれている。

ユダヤ人は、古代から日本を「黄金の国」「太陽の国」と考えて入植していたのだろう。

「いや〜、tomiさん、そんな宗教的な動機で古代の人々が動いていたのでしょうか?もっと実利的な動機で移動したのではないですか?」という人もいるだろう。

しかし、考えていただきたい。

人間はそもそも宗教的な存在である。

十二支、風水、易占など、古代の人々は、宗教に基づいてほとんどすべてのことを行っていた。

中世を支配したアリストテレスの学問は、世界を何か霊が支配する世界と考えていた。

物体の移動は、物体そのものにそこに向かう動機があるからと考えた。

このような物理現象を人格的に解釈する立場は、近代の機械論的世界観によって否定された。物体は何か人格的な動機があるから動いているのではなく、ただ物理的法則にしたがって無人格的に動いているのだ、とした。

しかし、このような考え方はここ300年の間に広まった新興思想である。

聖書が教える世界とは、「人格的世界」である。物体の移動は、単に物理法則にのみ従っているわけではない。物理法則を支配しておられる神の意思によって動くのである。

発電所の職員が、システムを自動運転に任せているように、神は、物体の移動を物理法則に任せておられる。自然法則は神のしもべであり、自然において起こる一切の現象は、神の意思による。

「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」(マタイ10・29)

現代人が世界を「機械的に無人格的に動くもの」と解釈するようになってから、「歴史の意味」「存在の意味」に関する関心は失われてきた。

だから、このHPで主張されているようなことを聞くとカルトのように思えて拒絶が起こるのである。

クリスチャンは、世界を神の被造物ととらえ、神の意思によって動いていると考えているから、そこに「意味」を見ようとする。

歴史には意味がある。歴史の意味は、神の栄光の顕現と、神による世界統治の実現である。

だから、古代のユダヤ人が聖書の世界観にしたがって、行動したと考えてもおかしくはないのである。

私は、彼らが「エデンの園への回帰」をテーマとして持っていたと考えている。

なぜならば、聖書がそのように教えているからである。聖書のもっとも中心的なテーマは、楽園の回復である。

神と人、神と世界が完全調和し、原初の祝福を回復するために、イエス・キリストは受肉され、十字架にかかられた。

神殿は楽園を象徴し、礼拝は楽園への復帰を象徴する。

クリスチャンにとって日曜日の礼拝は、昇天なのである。

ユダヤの神殿において、礼拝とは、至聖所に入り、御名を唱えることだった。至聖所とは、至高の場所、天を象徴する。

だから、礼拝の中において我々は、神の臨在される天にまで昇る。

新約時代において、神殿はクリスチャンの体になった。だから、我々の体の中に至聖所があり、天がある。

その至聖所、天に、聖霊なる神が住んでおられる。

我々の体の中の天から、祝福が外に溢れてくる。クリスチャンの存在そのものが、この地上において天であり、祝福の基なのである。

ユダヤの神殿の至聖所にあった契約の箱の蓋の上には、ケルビム(天使)が互いに向き合って翼を前につきだし、交差させていた。

神はその先端が触れ合っている2つの翼と蓋の間にできた三角形の空間からイスラエルを支配された。

飛鳥昭雄氏によれば、この三角形から支配するという図は、様々な宗教に影響を与えたと言われる。

フリー・メイソンのピラミッドのキャップストーンから見る「万物を見とおす目」は、この「契約の箱の蓋の上から支配する絶対者の目」に由来する。

相撲の土俵も、この構造になっているという。

土俵の上にある三角形の屋根の下から絶対者の目がのぞいている形になっているという。

これはけっして荒唐無稽ではない。なぜならば、相撲は神事だからだ。

すでに述べたように、神社の構造は驚くほどユダヤ教の「エデンの園」としての神殿の構造と似ている。

神社は、泉や川のほとりに建てられている場合が多い。これは、ユダヤの神殿と同じである。

神殿から川が流れ出ることは、エデンの園から4つの川が流れ出て全地を潤していたことを象徴している。

つまり、神殿、神社、クリスチャンの体が、祝福の基であることを表しているのである。

恐らく、相撲において「塩で清める」というのも、旧約聖書における「塩による清め」と関係しているのだろう。

千秋楽において、しこを踏む三役の立ち位置は、東西、向きが逆の三角形(△と▽)であり、二つを合わせるとダビデの星(六芒星)の形になる。

聖書における、2つの対立するものの調和、つまり、天と地、男と女、神と被造物、東と西、…から来ているのではないだろうか。

ペリーが来日した時に、「この国はどこか変だ。西洋でもないし、東洋でもない。」と言ったという。

私は、日本は、ある宗教的な意図を持って作られた人為的国家であると思う。

そして、古代において、壮大な仕掛けが施されているとも。実際、八咫烏は、飛鳥氏との面談の中で「国仕掛け」について言及した。

それがどのような仕掛けなのか、それが日本の宣教にとってきわめて重要だと感じている。

この点を理解せずに普通の宣教を行っても、この国ではなかなか実を結ばないだろう。

 

 

2005年4月20日

 

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