結婚と礼拝


聖書は、結婚を正しい神礼拝の象徴と描き、姦淫を偶像礼拝の象徴として描いている。

ということは、性行為が礼拝を象徴していると考えられる。

そして、礼拝とは、(旧約時代において)神殿の至聖所に入ることを意味しており、至聖所はエデンの園を象徴していることから、性行為とエデンの園とが密接に関係していることがわかる。

エデンの園は、堅牢な城壁に囲まれており、中に入る者は契約を守る者だけであった。契約違反をしたアダムとエバは園から追い出された。

聖書において、性行為が夫婦の契約を結んだ人に限定されるべきなのは、救いに入ることのできる人間が神の契約を守る人間に限定されていることを象徴しているからである。

(契約遵守者になるには、キリストの贖いを受け入れて、キリストの体[=教会]の一部に取り込まれる必要がある。キリストは完全に律法を守ったので、キリストにつながるときに、我々もまた神の契約の遵守者とみなされる。)

女性の肉体は、エデンの園を象徴しており、それは宮であり、男性の肉体は礼拝者を象徴している。

聖書において、妻の体は、夫にとっての祝福として描かれている。

女性器は「泉」(レビ20・18)であり、乳房は「酔わせるもの」(箴言5・19)である。

姦淫とは、夫婦契約の中にない者が、夫婦契約の祝福にあずかろうとして、違法に宮に入って礼拝することである。

神の幕屋では、門において審査が行われた。

礼拝者は、まず犠牲を捧げなければならない。犠牲の動物を携えてこなかった者は、礼拝を拒否された。

それゆえ、性行為には、審査が必要である。相手が結婚契約に基づいて有資格者(つまり、夫)かどうかをチェックしなければならない。

チェックなしに誰でも礼拝させてしまう者を姦婦といい、チェックなしに礼拝に進み出る者を姦夫という。

信仰を告白していない非契約者に聖餐を授ける教会は、姦夫を受け入れる姦婦に似ている。

(教会の礼拝に未信者を出席させてもよいか、という疑問があるかもしれない。信仰を告白していない未信者は礼拝をしているのではない。彼は礼拝を傍観しているだけなのだ。だから、「出席」は可能である。しかし、洗礼はもちろんのこと、聖餐は礼拝行為なので、それを授けることはできない。)

 

 

2004年11月12日

 

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