理屈を重視すべきだ2


フランシス・シェーファーは、ヘーゲルの弁証法を「絶望の境界線」と呼んだ。

それまでの「正」と「反」の対立的思考法を捨てるようになった人類は絶望の境界線を越えたのだと。

クリスチャンでも、弁証法的思考法をする人々に出会ってきた。

「tomiさん、人の意見を正しいか間違っているかで区別してはなりません。信条によって人の考えを否定し、異端呼ばわりするのは間違いです」と言われた。

こういう思考法をすると、教会は死ぬ。

異端の教えがどんどん侵入する。

「正」があれば、「反」は退けなければならない。

「イエス・キリストだけが救い主である」という命題があれば、「イエス・キリストによらなくても人間は救われる」という命題は間違いである。

しかし、弁証法によれば、必ずしも間違いではない。

こういう思考法に頼るならば、何を信じてよいのか分からなくなる。

これが、サタンの策略なのである。

つまり、「間違った意見を裁いてはならない。もっと寛容にならねば」とサタンは吹き込む。

そして「こういう厳しい姿勢こそが、異端審問、魔女裁判を生んだのだ」と。

嘘である。魔女裁判は、聖書に反する行いであった。

聖書は、教会に異端者を処刑する権限を与えていない。

また、拷問にかけて罪を認めさせるなどという方法も聖書に記されていない。

教会にできることは、「異端者を除名する」ことだけである。

このような弁証法的な思考法は、学校教育を通じて、現代人の骨の髄まで染み付いている。

ディベートは、対立的思考法の訓練になる。

科学は、対立的思考法以外では成立しない。

最近、朝のテレビで占いがさかんに流れているが、人々が占いを信じるようになったのは、対立的な思考法が崩壊しているからだ。

非合理的なものを平気で信じられるようになった。

非合理主義は、文明の破壊である。

ディスペンセーショナリズムのプレ・ミレも、対立的な思考法を捨てたところに原因がある。

聖書に書いてあるところを超えた教えがクリスチャンの間に浸透している。

対立的な思考法を重んじていれば、聖書と矛盾する教えを受け入れるはずはないのだ。

しかし、今のクリスチャンは、「真偽を峻別するのは非寛容だ。クリスチャンらしくない」と言う。

誤解がある。クリスチャンは、教えに関して寛容であってはならないのだ。

聖書と矛盾する教えをきっぱりと拒絶することなしに、教会を生き残らせる方法は存在しない。

今、ディスペンセーショナリズムや輪廻思想、ニューエイジなど、神秘主義がどんどん入っている。

フラー神学校がその傾向を大きく助長している。

聖書があることを述べているならば、それに反することを受け入れることは絶対にできない。

我々は、思考法をまったく変えなければならない。

 

 

2009年2月22日

 

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