非6日創造論者へ7


現代人は何でも自分の目で判断してよいと考えている。

「迷信を信じるな。それが本当に事実か自分の目で確認せよ。」という。

たしかに自然や社会において起こる事柄について、他人の見解とか、従来の説とか、権威者の意見とか、学校で習ったこととか、我々は自分の目で確認し、本当にそのとおりなのか調べることは悪いことではない。

しかし、「例外のない規則はない」ということわざのように、人間の認識論についても例外は存在する。

それは、「聖書」である。

人間は神の言葉である聖書を絶対に疑ってはならない。

聖書が創造は瞬間創造(6日創造)によったと主張しているならば、人間のなすべきことは「本当にそうかなぁ?」ということではなく、「はい。分かりました。世界は6日で創造されたと信じます。」と言うことである。

現代人は、このような認識の方法を軽蔑する。

「君、盲信はだめだよ。もっと疑ってかからなきゃ。」と。

現代人は、ほとんどみなデカルト=カントの弟子なので、人間以外の権威を設定することを悪だと考えている。

だから、世界において、聖書研究者すらもこの渦の中に巻き込まれて 神の言葉すら疑うようになったのだ。

我々は認識の範囲について厳格な区別をし、それを徹底して遵守する必要がある。

その区別とは、

聖書に明確に教えられていることについて:疑わない
聖書に明確に教えられていないことについて:疑う

である。

たとえば、聖書では、進化によらず、創造によって生物などが出現した、と言われている。

我々はどんなに現代科学がこのドグマを否定しても、けっしてあきらめてはならない。

ある石の年代が、年代測定法で50億年前と出たとしても、そんなもの信じてはならない。

ある星が100億光年離れていると専門家が言っても信じてはならない。

本物のクリスチャンは、ころころ変わる科学者の学説に動かされない。

ただ聖書の御言葉を握り締め、そこから離れない。

現代科学を信じる人々からバカにされても、御言葉を疑わない。

我々は、「すべてを疑え」とのヒューマニズム帰納法的認識論を捨てて、「御言葉は疑わず、その他は疑う」という「聖書的限定的帰納法的認識論」を確立しなければならない。

 

 

2005年8月6日

 

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