人生のすべての過程は予定されている


人間の生涯はすべて予定されている。自分がどのようにして誕生し、成長し、そして死ぬかはすべて永遠の昔に決定されている。

我々が現在このようにして生きているのは、神が永遠の昔に決定された計画が成就していることなのである。

我々が生涯のうちに出会う人の数は最初から決まっている。両親や配偶者、子供、孫など、親密な人々から、たまたま道を聞いた人、テレビで見た人、インターネットでメールをやりとりする人、知り合うといってもいろんな度合いがあるが、しかし、我々が知り合って関わりあう人の数は最初から決定されている。

それゆえ、すべての出会い、とくに、互いに強い影響を与え合う人との出会いは、神が特別に用意された人なのである。

もし神の御心でなければ、そのような出会いはありえない。

私には非常に神秘的に思えることがある。

今、自分が深く関わっている人が、2,3年前にはまったく知らない人だったという場合があるだろう。

ということは、これから先に深く関わる人が、今地球上のどこかで生活しているということも事実だ。我々は彼らについて今の時点ではまったく知らない。しかし、何年か後には、知り合う運命にある。

これらの人々は、神だけがご存知である。神のご計画では、これらの人々と出会うことになっているのだ。

これは私にとって非常に神秘的に思える。今は知らない。しかし、数年後には知っている。そして、強く影響を与え合う関係になる。それは、神が我々にとって特別の人として用意された人なのである。

今後出会うことになっている人は今どこにいて何をしているのだろう。そのことを考えると非常に不思議な思いにとらわれる。

出会いはすべて神の配剤である。良くも悪しくも出会いによって人間は変わる。そして、その出会いによって引き起こされる影響は、すべて神の作品なのである。神が許されなければ、その人は私に影響を与えないし、また、自分もその人に影響を与えない。

自分も相手も影響を与えられたとすれば、それは神の配慮なのだ。神が我々に何かを教えるために、また、我々を通じて相手に何かを教えるために用意されたのだ。

そして、それは、少数の例外を除いて、瞬間的であるように思える。つまり、その出会いは「その時だけ」意味があるのである。

私がこのことを感じるのは、昔自分に影響を与えた人と再会しても、必ずしも彼から影響を受けないということである。昔、聖書について教えてくれた兄弟と再会して、また有益なことを教えてもらえると期待すると裏切られる。まったく違った方向に進んでいて、問題意識がまったくかみ合わないのだ。

だから、人生というのは、不可逆的な過程ではないか、と考えている。つまり、さかのぼって同じことを期待しても無理だということである。

とくにある集団から出るように召された場合、その集団において有益なことを学んだとしても、その集団を卒業することが神の御心の場合、そこに帰るとかえって傷を負うことがある。昔の仲間と和解しようとしても、かえって傷が深まる場合がある。

これは、必ずしも当人たちの責任ではないように思える。それは、神の配剤なのだ。その集団や人は、自分にとって一つの学校のようなものだったのだ。

我々が今から中学校に戻っても、期待しているものは得られない。我々は卒業してから変わったからである。自分はもはや中学生の当時の自分ではない。それと同じように、神は自分の道を用意され、ある集団と出会うことを一つの学校として選んでおられるように思えるのだ。

そのように考えると、自分が今考えていること、そして、自分が今の時点で感動することは、「今の」自分専用なのである。

昔見て感動し、人生観を変えるような衝撃を与えた映画を再び見ても何も感じないかもしれない。1980年代から90年代にかけて私は戦争ものの映画をよく見た。『プラトーン』からはじまって『地獄の黙示録』『ディア・ハンター』『タクシードライバー』、『ベトナム戦争』・・・。

戦場の最前線の恐怖に非常に関心があった。しかし、今これらの映画を見ても、それほど大きなインパクトは受けない。

我々の前に現われて我々に影響を与える人や映画、本、TV番組などは、神の学校なのである。我々は、神に導かれてある考えや教えを教えるためにそれらのものを用いられるのだ。

じゃあ、すべて神の教えならば、異端者も神に教えられて異端になるのか、という疑問が起きるだろうが、私はある意味においてそうだ、という。

神はある人を選ばれて、間違った教えを信じることを許される場合がある。その人にとって衝撃を受け、そして、その教えにはまっていくことが神の計画である場合があるのだ。

たとえば、林郁夫が麻原に出会って自分の考えを変えたように。あの時、麻原の教えに出会ったことが、彼の内面の求めと一致したので、彼は人生を大きく方向転換させられたのである。

これも選びである。ゲーリングがヒトラーと出会って心酔したのも選びである。

人間は神の道具であり、神は、ご自身の計画によって、その人の人生を導かれる。出会いはすべて必然であり、偶然はない。

仮に自分が聖書の教えに出会って、それを信じ、それに忠実に従おうと心に決めた人は、選びの器であり、幸いな役割を与えられた。しかし、逆に聖書に逆らうように心に決めた人は、滅びの器である。不幸な役割を与えられたのだ。

人間はみな神の選びの器であり、神の計画にしたがって、神の役に立つように導かれる。

人間の側から見れば、理不尽だが、しかし、この世界は人間によって作られたのではなく、神によって創造されたのだから、神がどのような計画を立てようと神の自由である。

この世界において、我々は主権者ではない!

だから、神の計画にしたがって、動く以外にはないのだ。

それでは、神に対して罪を犯し、歴史的な大犯罪を犯したヒトラーやスターリンや麻原のような人間を神は責めることはできないではないか、ということになるのだが、それは、被造物として発してはならないのだ。

神は人を罪に誘惑されない。しかし、人が罪を選択することを妨害しないという形で、その人に対するご自身の計画を成就されるのだ。人間の側から見れば、ヒトラーには、ユダヤ人を虐殺することも、それを思い留めることも選択の範囲にあることだ。しかし、神はヒトラーの心が自ら固くなることを放置され、彼を通じて神の計画を成就された。

人間は神の抑制の恵みが働かなければ、どのような極悪でも犯す存在である。我々が大きな罪を犯すことなく生きていられるのは神の抑制の恵みのおかげである。今次の瞬間に善を行うか、悪を行うかは我々の選択として残されている。しかし、もし神が我々の生まれながらの性質がその本来のありかたを発現することを許されれば、我々は必ず悪を選びとる。

「いや、良心がそれを留めるだろう」というだろうか。

そんな甘いものじゃないのだ。

神が我々の自由を完全に許されれば、サタンが次々と誘惑の矢を放ち、我々が自分を支えている良心の掛け金を次々と破壊していくだろう。我々は瞬時にして徹底的に堕落するだろう。

我々がヒトラーのような人間にならずに済んでいるのはただひたすらに神の恵みである。

そして、我々の心のうちに上のものを求め、向上し、努力しようという願いが起こって、その努力を実際に行うことができるのも、ただひたすらに神の恵みである。恵みなしには、努力しようとするたびにその願いをことごとく破壊するサタンの攻撃にさらされて、自堕落な生活を送り、そして、ついに、徹底的な破滅を経験することになるだろう。

神の視点に立てばすべては選びなのである。人間の視点に立てば、自由意志であるが、神の視点はまったく人間のそれとは別である。

誰と出会ってどのような影響を受けて、自分の考えをどのように形作るかはすべて、ことごとく、神の選びのゆえである。だから、徹底して聖書的な考えを身に付けようと決意した人は最高に愛されていると考えてよいだろう。

神はその人を特別に愛して選んでおられる。普通の人は、まず神を選びとることもしないだろうし、たとえクリスチャンになっても、聖書と関係ない教えを信じるだろう。それは、神がそのレベルの人生でよい、と決定されたからなのだ。

神の視点から見ると世界はまったく違って見えるだろう。

 

 

2004年6月30日

 

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