聖書的な社会は老人を敬う


最近かなり禿げてきた。

今、TVでは、脱毛を防いだり、育毛、かつらなどがさかんに宣伝されているが、聖書的に言えば、禿げは、栄光の印である。

聖書では、髪の毛は、「保護」を象徴する。

女性に髪が多いのは、保護されるべき存在であることを象徴するからだ。

聖書では、男性が長髪にしているのは恥ずべきこと言われている。


自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、・・・ (1コリント11・14)

しかし、女性の場合長髪は栄光である。

女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。(1コリント11・15)

女性にとって髪は「かぶり物」である。
それは、頭を保護する。

男性が壮年になると次第に禿げるのは、社会において保護される立場ではなくなったことを象徴している。

壮年の男性は、統治者なのである。

女性は、男性の庇護のもとに置かれている。

赤血球の数も男性よりも少ない。女性は庇護される側として創造された。

未婚のときには、男親の庇護のもとにあり、結婚してからは、夫の庇護のもとに置かれる。

ウーマン・リブという反聖書的な運動以来、間違った女性の自立が説かれてきた。

男性のように自立することが、栄光であるかのような。

まったく違う。

女性は保護されている状態が栄光なのだ。

女性の長髪が栄光であるとの聖書の言葉は、このことを示している。

なんでも自立することが栄光だと誤解してはならない。

神はそれぞれに役割を与えられた。男性には統治者としての栄光を、女性にはその統治者を支え、彼に守られるという役割を。

聖書によれば、自分の持ち場にいることが栄光なのだ。

女性が男性のようになることが栄光なのではない。

シマウマがライオンのようになることが立派なことだろうか。

強いことが栄光であり、みんなライオンのようになることが理想であるならば、食物連鎖が崩れてきて、自然界がめちゃくちゃになる。

進化論の世界観を適用すると、「みんなライオンのようになろう」と考えて、無理をするようになる。

TVで登場するウーマン・リブの人々を見て美しいと思うだろうか。好感が持てるだろうか。

「何か無理しているなあ。」と不自然さを感じるだろう。

禿げ頭は男性の栄光であり、神の権威を象徴しているので、禿を馬鹿にしてはならない。

エリシャはそこからベテルへ上って行った。彼が道を上って行くと、この町から小さい子どもたちが出て来て、彼をからかって、「上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭。」と言ったので、
彼は振り向いて、彼らをにらみ、主の名によって彼らをのろった。すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、彼らのうち、四十二人の子どもをかき裂いた。(2列王2・23-24)

白髪頭も、栄光である。

あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。(レビ19・32)

おそらく、白髪は禿頭と同様に光を象徴するからだろう。

頭は、神の栄光を表現しており、我々は、髪の毛をその関連で見なければならない。

ニューエイジ運動とともに登場した男性の長髪化は、神の造られた秩序に対する反逆である。

長髪の傾向は、現代文化が神の創造秩序に違反していることを示している。

禿頭の老人も、白髪頭の老人も神の栄光を象徴している。

だから、老人を馬鹿にする文化は呪われる。

聖書的な社会は、老人を敬う。

 

 

2009年11月20日

 

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