存在論的に多、契約的に一 11


<Perter様>


ウイットネス・リーの言葉:『ライフスタディ創世記(6)』pp.246-247

・・・反対者たちの口はふさがれ、彼らの書く手は切り落とされたのです。
なぜなら彼らにはイザヤ書9章6節とコリント人への第一の手紙15章45節を処理するすべがないからです。ある者がどれほどイザヤ9章6節を捻じ曲げようととも、ここに書いてある御父という称号を消し去ることはできまん。
この節は、一人の男の子がわたしたちに与えられたこと、彼の名は永遠の父と呼ばれることを言っています。この父は確かに神格の父です。・・・歴史について 、二ケア信条について、その他の信条について、わたしに言わないでください。
わたしは信条を顧みません。わたしは御言葉を顧みるだけです。

(要するにこの男の子(もちろん、イエス)は神格の御父である、と言うわけ)

コリント人への第一の手紙15章45節は「最期のアダムは命を与える霊となった」 と言います。・・・あなたは、この霊は神格の聖霊と異なると信じているのでしょうか?もしそうであれば、あなたは二つの命を与える霊を 信じているのです。それは異端です!この戦いをしている時、わたしは敵を ずたずたにかみ裂くおおかみです。

(要するに最期のアダムキリストは神格の聖霊になった、というけ)

・・・全キリスト教に、わたしたちに反対させましょう。最終的に
わたしたちはその結果がどうであるかを見るでしょう。主の回復の中で、 わたしたちはかみ裂く力と突き放す力を持っています。遅かれ早かれ
敵は打ち破られ、屈服させられるだけでなく、無条件降伏するでしょう。
神は凱旋行進の中でわたしたちを導いておられます。

(全キリスト教は敵であると・・・・!?)

<tomi>

(1)
この節は、一人の男の子がわたしたちに与えられたこと、彼の名は永遠の父と呼ばれることを言っています。この父は確かに神格の父です。
どうして神格の父なのでしょうか?

聖書の一箇所から教理を作り出すことはできません。それに対する補強聖句が必要なのです。なぜならば啓示とはそれ以上の権威がないので、「自己保証的」だからです。啓示の中で不明瞭な個所があれば、他の権威にすがることはできません。たとえば、教会にすがったり、教皇にすがったりもできません。聖書は最高権威なのですから、聖書で分からないことがあれば、聖書の他の個所で確認する以外にないのです。

これが「聖書を聖書によって読む」という正統派の聖書解釈の原理です。

聖書の他の個所において、「御子は御父になった」と書いてありますか?

ないでしょう。ないならば、これを教理として唱えることはできません。

むしろ、その反対聖句が無数にある。

たとえば、御子は御父に向かって祈っているのですよ!これでもう、ウィットネス・リーの解釈が間違っていることが明らかではないですか!

さらに、我々は、イエスを永遠の父と呼ぶことができます。

なぜならば、聖書においてイエスは創造者であったと述べられているからです。

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネ1・3)

万物の創造者である方を「永遠の父」と呼んで何が悪いのでしょうか?!



(2)


コリント人への第一の手紙15章45節は「最期のアダムは命を与える霊となった」 と言います。

この個所は、「イエスが御霊に変身した」ということを教えていません。

文脈から考えるならば、この「御霊」とは「御霊に属するからだ」のことです。


ところが、ある人はこう言うでしょう。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」
愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。
あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。
しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。
すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。
また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。
最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。
第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。
土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。
私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。
兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。(1コリント15・35-50)

パウロはこの文脈で、血肉のからだと御霊のからだを対照させています。
聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。

最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。(1コリント15・45-46)
つまり、最初の人アダムは創造されたときに血肉の体を与えられたが、最後の人キリストは「御霊のもの」になったと。

もちろん、この「御霊のもの」とは、44節の「御霊に属するからだ」のことです。

血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(44節)

イエスは御霊になったのではなく、御霊のからだによみがえったのです。

つまり、ウィットネス・リーの聖書解釈は、字義拘泥的だということです。

文脈を無視して、文字だけにこだわるからこういった誤謬に陥るのです。

 

 

2006年4月15日

 

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