十分の一の不払いを正当化する人間はクリスチャンではない


今の教会の変な教えの一つに「献身者」というものがある。

「献身者だから、全部捧げなければならない」と。

聖書では、クリスチャン全員が献身者なのだ。全部を捧げることなしにクリスチャンにはなれない。

旧約では、全焼のいけにえというものがあり、その肉はすべて焼いて煙にしなければならなかった。

パウロは、クリスチャンのことを「生ける供え物」と呼んだ。

我々は全焼のいけにえなのだ。

全部煙になって神の前に上らねばならない。

だから、「私は献身者ではないから、全部捧げる必要はない」というような理屈は通用しない。

洗礼を受けてクリスチャンになることは、自分の財産も家族も命もすべてをことごとく焼いて煙にすることだ。

だから、十分の一献金も渋るようなクリスチャンはクリスチャンでもなんでもない。

それは、根底からキリスト教を誤解している。

いいですか。

十分の一を払う責任はないと言った時点で、あなたは契約から追放される。

エデンの園から追い出される。

洗礼は無効であり、いのちの書から名前を消される。

全焼のいけにえを捧げる責任がないと言った旧約の民が「断ち切られた」ように。

契約外の人間が救いを得られる可能性はまったくない。

だから、十分の一の不払いを公言する人間は「例外なく」永遠の地獄に落ちる。

洗礼を受けてクリスチャンになると告白することは、契約に入ることであり、神を主として全的献身をすることを意味するのだ。

「無条件の天国行きの切符」を手に入れることでは絶対にない。

 

 

2010年5月22日

 

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