知的所有権について2


<K様>
以下の私の疑問に先生のご意見を聞かせて頂けますでしょうか

伝道者の書1章9節には、「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない」と書かれており、レビ記25章23-24節には、「地は買戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。あなたがたの所有するどの土地にも、その土地の買戻しの権利を認めなければならない。」と書かれております。

以上のことからは、現代の社会で誰もが認めているような土地や財産について、制限を加えるべきとの見解もありうるでしょうが。特に、伝道者の書1章9節は、知的財産の独占権を否定する根拠として解釈する余地はないのでしょうか。

<tomi>
「現代の社会で誰もが認めているような土地や財産」が何を意味するのかまだはっきりとはわからないのですが、たとえば、パソコンのOSやゲノム情報のようなものでしょうか。

ウィンドウズやゲノム情報などは、空気や水と同じように、社会において誰もが必要とするものであり、これらに知的所有権をつけることによって、たとえば、OSが高いためにパソコンが高価になり、普及を阻害しているという意見があります。また、ゲノム情報に特許が与えられると、それに基づく研究が妨害されるということがあるそうです。

ですから、あまりにも普遍的な価値が高いものについては、特許を認めないか、それとも、ロイヤルティを非常に安価に押さえる必要があるのではないか、という意見があると聞いています。

(1)伝道者の書1章9節

この個所は、2節の「空の空。すべては空。」にあるように、人生の空しさを表す一つの例です。

どのような製品であれ、発見であれ、「史上はじめて」という時は必ずあったはずです。アダムは、サンダルを作ったかもしれません。それは恐らく世界で最初のサンダルでしょう。

ということは、このことに関して「日の下に新しいものは一つもない」という教えは間違いだということになります。

聖書は、ここで「この世に新発見や新製品は一切ない」といおうとしたのではなく、「先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないだろう。」とあるように、自分が「新発見をした!」と思っても、それは自分が思うほど重要なものではなく、「空しい出来事」でしかなく、後の人々にはすぐに忘れられるものである、ということを述べているのです。

いったい労苦して新しい発見や発明をしても何の意味があるのだろうか?すぐに後の人々は忘れてしまう。人生は空しい風のようなものではないか?これがソロモンの問題だった。

ということなので、この個所が「新しいものはこの世には存在しないのだから、ある物について独占的所有権を主張できない」ということを証明する根拠になるとは思いません。

(2)レビ記25章23-24節
土地の買戻しの権利と土地の売買の禁止は、「神の民は土地を所有し、そこを中心として世界のすべての土地を獲得すべきだ」という思想から出ています。

土地がなければ、支配は不可能です。この世界は神のものなのですから、神は、御民にイスラエルの土地を所有させ、そこを基点として神の国を拡大することを望んでおられた。

これは侵略を意味しません。律法において、イスラエルは侵略用の武器である馬を増やすことを禁止されていました。

これは、伝道による御国拡大なのです。福音を伝えることにより、メシアの到来を告げることによって、全世界を神の御国に変える働きをイスラエルは担っていました。

ですから、この戒めを「異邦人やノンクリスチャンにも土地を手放すことを禁止している」と解釈することはできません。

神の目から見れば、異邦人やノンクリスチャンは最終的な土地所有者としてはふさわしくない存在です。

神は、御国を「御民」に継がせようとしておられるのです。

土地は、支配の基礎であり、土地がなければ、力を持つことはできず、それゆえ、支配者になることは不可能です。

クリスチャンは、土地を所有すべきであり、そこを伝道の拠点にして、多くの伝道師や宣教師、牧師、働き人を住まわせたり、そこからえられる収益で養ったりしなければならない。

「終末が近い。こんなもの何の役に立つだろう」と言って、土地を売り払っているクリスチャンは、サタンに完全にだまされて根無し草にさせられているのです。

というわけで、この個所から所有権の制限を主張することは不可能と考えます。

 

 

2005年7月25日

 

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