現代において預言は一切ない?


聖書は実質的に預言を否定していません。

預言は、新約時代においてないとする教会が多いと思いますが、預言を否定する箇所は聖書にありません。

ただし、預言を吟味(原語では「疑い」)しなさいとあり、何でもかんでも信じることはできません。

預言を聖書啓示と同列に置く事はできません。

聖書によって調べ、正しいかどうか判断すべきです。

使徒行伝に「大地震が起きる」と預言するものがあり、その預言のとおりそれが起こったとあります。

「これは聖書の時代だから」と福音派は、現代において同じような預言があることを否定しますが、論拠はありません。

「聖書啓示が完成していない時代だったからだ」といいますが、「聖書啓示が完成したら預言は停止する」という個所は聖書にありません。

有名な「預言は廃れる・・・」という箇所は、我々がこの肉体を離れた後のことについてです。

つまり死後、我々が顔と顔を合わせて主を知るようになるので、もはや預言は必要ない、という主旨です。

ですから、預言をすることは、異端のしるしではありません。

かといって、預言を丸々受け取る責任も教会にはない。これは、牧師のメッセージについてもいえます。

牧師のメッセージも広義では預言ですが、それは聖書と同列に置くことはできません。メッセージは無誤無謬ではありません。

今のカリスマ運動の悪魔性のゆえに、預言など霊的な事柄にアレルギーが起き、それを全面否定すると、逆に悪霊が働く傾向があります。

なぜならば、悪魔は、「この宇宙は霊的現象などない閉じられた系であり、数学で全部割り切ることが可能である」と我々に吹き込もうとしているからです。

今の福音的陣営はことごとくこの唯物論的考えにやられてしまったと思います。

とくにカルヴァン派のある一派は、霊の働きをいうことすら異端視します。

クリスチャンにとって、「宇宙は閉じられた系ではなく」、その外側から神が働かれる場所です。

正しい信仰を維持するためには、両方の極端を避けるべきと思います。

つまり、霊を無制限に受け入れることと、霊を無制限に拒否することと。

 

 

2008年5月1日

 

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